艦長時代.(1876年 - 1890年)
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「ジョン・アーバスノット・フィッシャー」の記事における「艦長時代.(1876年 - 1890年)」の解説
1876年から1883年まで、彼は艦長として5隻の艦を指揮した。最後の指揮艦は装甲艦「インフレキシブル」であった。「インフレキシブル」は当時最強との評判のあった軍艦だったが、実際には、その4門の先込め砲は長すぎて装填が困難であり、実戦では役に立たなかった。それでも「インフレキシブル」は地中海艦隊に配属され、1882年のエジプト戦争(英語版)においてビーチャム・シーモア(英語版)提督の艦隊の1隻としてアレクサンドリア港の砲撃を行った。 艦長時代に、フィッシャーは後のエドワード7世国王やアレクサンドラ王妃と親密な友人になった。 1886年から1890年まで彼は海軍の軍需部門の長(Director of Naval Ordinance)の職にあったが、陸軍省(War Office)から海軍砲の設計の権限を取り上げる試みにはそれほど成功しなかった。彼は1887年にヴィクトリア女王の侍従武官となり、1890年8月に海軍少将に昇進した。
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艦長時代(フランス革命戦争)
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「エドワード・ペリュー」の記事における「艦長時代(フランス革命戦争)」の解説
1793年6月18日、「ニンフ」は2隻のフランス・フリゲートがイギリス海峡に現れたという知らせを受けてファルマスから出航した。19日の夜明け、「ニンフ」はフランスの36門艦「クレオパトラ」を発見した。指揮するのは、フランス海軍に残った数少ない旧体制(アンシャン・レジーム)に属する艦長、ジャン・ムロンだった。「ニンフ」の的確な急襲により、「クレオパトラ」のミズンマストと舵輪は破壊された。そして操艦のできなくなった船は、「ニンフ」に横付けされ、激しい斬り込み戦の末に捕獲された。致命傷を負ったムロンは、最期の苦しみの中、命令書を飲み込もうとしたが、秘密の信号書の処分には失敗した。暗号は無傷でペリューの手に落ち、ただちに海軍本部に送られた。「クレオパトラ」は戦争開始後最初に捕獲されたフリゲートとしてポーツマスに運ばれた。そして6月29日、ペリューはチャタム伯爵の仲介で国王ジョージ3世に謁見し、ナイト爵に叙された。 1794年に彼は西部方面フリゲート戦隊の指揮官(代将)となった。1795年に、彼は、彼の乗艦のうち最も著名であるフリゲート「インディファティガブル」を指揮することとなった。 ペリューは泳ぎもうまく、多くの人命を救ったことでも知られている。もっとも印象的なできごとは1796年1月26日、軍隊を輸送していた東インド会社の貿易船「ダットン」がプリマス・ホウの下で座礁したときのことである。海が荒れていたために、乗員と兵士は岸にたどり着くことができなかった。ペリューは綱を持って残骸から泳ぎ出し、それを命綱として、船に乗っていた者のほとんどすべてを救助した。この功績により、彼は1796年3月18日に準男爵を授けられた。 ペリューの最も有名な戦闘は1797年1月13日、フリゲート「アマゾン」と共に巡航していたときに起こった。彼らはフランスの74門戦列艦「ドロワ・ドローム」(「人権」の意)を発見した。常識では1隻の戦列艦は2隻のフリゲートに勝ると考えられている。しかし、荒天下においてはその操船術の優位性によって、イギリスのフリゲートはフランス戦列艦の優勢な火力に立ち向かうことができた。1797年1月14日の早朝、3隻の船は、Audierne湾内の防波堤に吹き寄せられた。「ドロワ・ドローム」と「アマゾン」は座礁したが、「インディファティガブル」は巧みな操船によって脱出することができた。
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