家族と少女時代と熊本での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/19 13:41 UTC 版)
「グレース・ノット」の記事における「家族と少女時代と熊本での活動」の解説
ノット家の家系図をたどるとオリバー・クロムウェルともつながりがあるので、名家といえる。父親は海軍軍人でエドワード・トマス・ノット(Edward Thomas Nott)といい、1861年に夫人と結婚、1870年に大佐に昇進したが。1874年にマラバ号艦長時代、カイロ北東約 100キロのスエズ運河中央管理部が置かれているイスマイリアで死亡した。CMS(Church Missionary Society)(リデルたちを海外に派遣した団体)は女性宣教師養成の必要を感じザ・ウイロウズという学生数46名の良家の子女の学校を作った。グレース・ノットはそこに入学した。そこでは、聖書の学問だけでなく、派遣地域の文化、一般商業簿記、また医学や看護の知識も教えていたという。熊本着任後、リデルは第五高等学校学生に英会話を教え、またグレースは1918年―19年ごろまで、日曜学校で英語会話を教えていた。グレースは母親と共に熊本市四軒町の借家に住み、母は夏目漱石に会話をおしえた。長女グレースより年下の長男レジャアは陸軍将校となり、インド北部で戦病死した。次男パーシィはケンブリッジ大学で学士号、修士号をとってから、聖職者となり司祭になっている。
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