家族と幼年時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:37 UTC 版)
ゼルダ・セイヤーはアラバマ州モンゴメリーに6人兄弟の末子として産まれた。母のミネルヴァ・バックナー・「ミニー」・マッケン(1860年11月23日 - 1958年1月13日)はその娘の名前をあまり知られていない二つの小説の登場人物からとった。ジェーン・ハワードの「Zelda: A Tale of the Massachusetts Colony」(1866年)とロバート・エドワード・フランクリンの「Zelda's Fortune」(1874年)である。どちらのゼルダもジプシーだった。甘やかされた子供であり母親には溺愛されたが、アラバマ州最高裁判所判事で州内でも指導的な立場にあった父親のアンソニー・ディキンソン・セイヤー(1858年 - 1930年)は厳格な人間で、娘にも他人行儀だった。一家の祖先はロングアイランドからの初期の移民で、内戦前にアラバマ州に移って来た。ゼルダが産まれる頃のセイヤー家は南部でも有名な一族だった。大叔父であるジョン・テイラー・モーガンは上院議員を6期務め、父方の祖父はモンゴメリーで新聞を発行していた。母方の祖父であるウィリス・ベンソン・マッケンもケンタッキー州から上院議員に選出されている。兄弟はアンソニー・ディキンスン・セイヤー・ジュニア(1894–1933)、マージョリー・セイヤー(マイナー・ウィリアムソン・ベンソン夫人 1886–1960)、ロザリンド・セイヤー(ニューマン・スミス夫人 1889-?) 、クロティルダ・セイヤー(ジョン・パーマー夫人 1891–1986)である。 子供の頃のゼルダ・セイヤーは人並み外れて快活だった。ダンスをし、バレエのレッスンを受け、外でもよく遊んだ。1914年からシドニー・ラニア高校に通い始める。利発な生徒ではあったが、授業には関心を持たなかった。積極的な社交的生活を送ったこの高校でもバレエの勉強は続いた。酒と煙草に手を出し、恋人と二人できりで時間を過ごすゼルダを、彼女のダンス・パフォーマンスに触れたある新聞記事が「男と水泳」のことしか頭にない人間、と引き合いに出したこともあった。彼女は注目を浴びることを自らの喜びにし、進んで慣習に逆らうかのように振る舞うようになる。そのためにならチャールストンを踊ることも、裸で泳いでいるという噂を広めるためにぴたりとした肌色の水着をつけることもいとわなかった。しかし父親の名声が盾となり社会からこぼれ落ちることはなかった。とはいえ当時南部の女性は優しくて人が良く、素直なものというのが相場で、つまり周囲の人間にとってセイヤーの奇行はショッキングであり、すぐに彼女は―幼少期からの友人で後のハリウッド女優であるタルラー・バンクヘッドとともに―モンゴメリーのゴシップの中心人物になった。ゼルダの精神風土は高校の卒業写真の下部に要約されている。 借りるだけなら誰でもできるのに全人生が仕事でなければいけないわけはある?今日のことだけ考えて、明日のことを気にするのはやめましょう
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