家族と指揮官着任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/11 04:40 UTC 版)
「ジェームズ・ヤング」の記事における「家族と指揮官着任」の解説
ジェームズ・ヤングは1762年、海軍軍人の家族に生まれた。父ジェームズは海軍士官で後に中将に昇進し、母ソフィアはジェームズの2度目の妻だった父と最初の妻エリザベス・ボルトンの子供である腹違いの兄、ウィリアム(英語版)も海軍での任務に従事して、赤色中将にまで登り詰めた。ジェームズ・ヤングも父と兄の後を追って海軍に入り、入隊後数年たった1794年に、ジョン・ジャーヴィスから指揮官をまかされた。フランス革命戦争が始まって間もないころだった。その前に、ヤングは西インド諸島でジャーヴィスと任務についており、イギリスへ戻る途中のリプライザルの艦上で、火船コメット(英語版)の指揮を命じられた。ヤングは、1795年6月から短期間、少将に昇進したクリストファー・メイソンの後任としてゼラスの指揮を執った。その後ヤングは地中海へ向かい、コメットの指揮を再開して、1795年10月5日に勅任艦長となった。 1796年、ヤングは32門艦グレーハウンド(英語版)を指揮して北海を航行し、その後英仏海峡に向かって、複数の私掠船と交戦して見事に勝利を納め、12月17日午前4時にバルフルール岬沖でアバンチュールを、12月18日午前7時にビーチー・ヘッド(英語版)沖でタルターヌをそれぞれ拿捕した。アバンチュールはブリッグ船で、16台の4ポンド砲を搭載し、乗員が62人いた。指揮官はシティザン・ペルティエだった。この船はカレーを出てから2日目で、初めての航海であり、まだ捕獲した船はなかった。タルターヌもブリッグ船で、16台の4ポンド砲を積んで、乗員が60人いた。こちらはディエップから出港していた。この私掠船もまだ何も捕獲していなかった。拿捕報告によると、ヤングは18門スループ艦のプローヴァー(英語版)のチェシャー艦長に賛辞を送っている。プローヴァーは、ヤングの私掠船追跡を見ていて、タルターヌの退路を巧みに断ち切ったのである。ヤングは1797年3月までグレーハウンドの指揮を執った後、32門艦ユニコーン(英語版)の指揮官となった。
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