家族と後継者問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/13 14:03 UTC 版)
「カロル1世 (ルーマニア王)」の記事における「家族と後継者問題」の解説
ウィキメディア・コモンズには、カロル1世に関連するメディアおよびカテゴリがあります。 ルーマニア公に選出されたとき、カロルは独身であった。彼が承認したルーマニア憲法では、王がルーマニア人女性と結婚することは許されなかった。1869年、カロルは妃探しの目的で欧州、主としてドイツを旅行した。この旅行で彼はヴィート公ヴィルヘルム・カールの長女エリーザベト(ルーマニア語名エリサベタ)と会い結婚した。2人の結婚は史上最も不完全な結婚の一つとされた。エリサベタが夢見がちな女性だと評判が悪い一方、カロルは冷たい性格で、打算的な人物であった。夫婦の間には1871年に長女マリアが生まれたが、1874年に夭折した。この出来事がさらに国王夫妻を疎遠にする結果となり、エリサベタは一人娘を失ったトラウマから立ち直ることがなかった。 1881年に王国が成立すると、王位継承問題が最も重要な国家問題となった。カロルの兄レオポルトとその長男ヴィルヘルムは継承を辞退し、レオポルトの次男フェルディナントがカロルの後継者となった。エリサベタは、自分のお気に入りの女官エレナ・ヴァカレスクを義理の甥と結婚させようと働きかけた。フェルディナントとエレナが相思相愛となった結果、事態を重く見たカロルによってエリサベタは2年間国外へ出された。フェルディナントもエレナとの関係を絶たれ、イギリス女王ヴィクトリアの孫娘メアリー・オブ・エディンバラ(ルーマニア語名マリア)と結婚した。 カロルとエリサベタは、晩年になって互いを理解し合い、良い友人関係になったとされている。 先代: アレクサンドル・ヨアン・クザ ルーマニア公 1866年 - 1881年 次代: 王制移行 先代: 王制移行 ルーマニア国王 1881年 - 1914年 次代: フェルディナンド1世 典拠管理 BNE: XX4436561 BNF: cb13602408z (データ) CiNii: DA13514113 FAST: 260435 GND: 119278219 ICCU: IT\ICCU\PUVV\330229 ISNI: 0000 0000 8028 9051 LCCN: n89664720 NARA: 10572620 NKC: jn20000700282 NTA: 075211645 PLWABN: 9810640781105606 SELIBR: 174408, 289343 SNAC: w6752sqd SUDOC: 080845134 ULAN: 500315448 VcBA: 495/43634 VIAF: 34630268 WorldCat Identities: lccn-n89664720
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