家族と後継者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 16:50 UTC 版)
「市川團十郎 (9代目)」の記事における「家族と後継者」の解説
九代目は、明治歌舞伎の頂点にあって「劇聖」とまで謳われ、その存在はそれ自体が歌舞伎を体現するほど神格化されたものだったが、自らの後継者となると最後まで恵まれず、そして悩まされた。 男子だけでも5男を儲けた子福者の父・七代目とは対照的に、九代目が授かったのは2女のみだった。そこで九代目は門人ながら早くから「天才」と呼ばれてその資質を見せていた五代目市川新蔵を養子とし、これを手塩にかけて育成して成田屋のお家芸を伝えていた。新蔵もその期待に応えて芸を伸ばし、自然周囲からも「いずれは十代目團十郎」と期待されるようになっていった。 九代目が二人の娘に結婚を急がさず、むしろ梨園の外の知識人と自由に恋愛することを推奨するという、当時としては仰天するほど進歩的な考え方を持っていたのも、この新蔵が控えていてくれたからに他ならなかった。 ところが1897年(明治30年)、その新蔵が37歳で急死するという痛恨事に見舞われる。眼病で片目を失明、眼帯をかけながら舞台を務めていたが、病状は快方に向かうことなく力尽きてしまったのである。九代目の落胆ぶりは並大抵ではなかった。 それでもあえて長女の二代目 市川翠扇には恋愛結婚を許した。日本橋の商家に生れ、慶應義塾に学び、日本通商銀行に就職した稲延福三郎というサラリーマンである。しかもこれを婿養子に取るとまでいう。福三郎は一介の銀行員だったが、その父はやがて東京市会議員になるほどの地元の名士で、福三郎の陽性な性格の中にもそうした育ちの良さが感じられた。しかもなかなかの勉強家で、書画骨董の素養もあり、話題に豊富な文化人だった。そしてなによりも、長女の良き伴侶として文句の付けようがない夫だった。 稲延福三郎が堀越福三郎として市川宗家に婿養子に入った2年後、團十郎はついに後継者の件についてはなんら手を打つことなく、静かにこの世を去った。
※この「家族と後継者」の解説は、「市川團十郎 (9代目)」の解説の一部です。
「家族と後継者」を含む「市川團十郎 (9代目)」の記事については、「市川團十郎 (9代目)」の概要を参照ください。
- 家族と後継者のページへのリンク