舞台化の経緯
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「ファントム (ミュージカル)」の記事における「舞台化の経緯」の解説
1982年、イエストンとコピットはミュージカル『ナイン (ミュージカル)(英語版)』を共に製作してトニー賞 ミュージカル作品賞を受賞した。1983年、俳優で演出家のジェフリー・ホールダーからルルーの小説を基にしたミュージカル製作を持ち掛けられた。ホールダーはルルーの遺産管理者から唯一アメリカでのミュージカル化の権利を獲得していた。ホールダーが演出を務めようとしていた。当初イエストンはこの計画に懐疑的であった。「大笑いしたよ。世界最悪のアイデアだと思った。ホラーを基にしたミュージカルなんて誰が書きたいと思う?でも後になって何か変えられると思った。怪人を『ノートルダム・ド・パリ』のカジモドやエレファント・マンのようなキャラクターにできるのではないかと思った。彼らは外見に欠陥があるかもしれないが、私たちの中身はそんなに素晴らしいか?このキャラクターは泣けるものになると思った」。 1984年、イギリスのプロデューサーのケン・ヒル(英語版)は1976年のミュージカル『オペラ座の怪人』の改訂版を製作していた。ホールダー、コピット、イエストンはウエスト・エンドではなくブロードウェイを見据えていたためこれについてはそれほど脅威に感じていなかった。しかし『バラエティ』誌のアンドルー・ロイド・ウェバーによるミュージカル『オペラ座の怪人』の記事を見て驚いた。グレートブリテン島ではこの小説の権利がパブリックドメインとなっていたのである。これ以前にホールダーはアメリカおよびヨーロッパでの権利を2年間分獲得していた。イエストンは曲をほぼ書き終えており、ロイド・ウェバー版の発表があった時にはイエストン、コピット、ホールダーはブロードウェイ上演に向け資金集め中であった。 当初、ブロードウェイでの上演を目指して製作中だったが、1986年、一足先にロンドンでアンドルー・ロイド=ウェバー版が大ヒットして早々とブロードウェイ上演が決定してしまったため、スポンサーのほとんどが離れ、資金面の問題で上演を断念した。イエストン、コピット、ホールダーは落胆して『ファントム』製作を棚上げし、別々の道を歩むこととなった。ニューヨークでコピットがロイド・ウェバー版を観劇した時、アプローチの仕方が根本的に違うことに気付き、自分たちの作品に可能性が残っていると考えた。数年後、コピットはNBCのミニシリーズ『Hands of a Stranger 』の脚本を執筆して高視聴率となり、NBCはコピットに別の作品を依頼した。その後、4時間2部構成のTVドラマ用に修正した『オペラ座の怪人 (1990年のミニシリーズ)(英語版)』の脚本をイエストンの同意を得てNBCに売却した。ガルニエ宮で撮影され、音楽はオペラの曲のみを使用した。チャールズ・ダンス、テリー・ポロ、バート・ランカスターが主演し、1990年にドラマ化・放映された。コピットは「モウリー(イエストン)にちょっと待っててくれと言ったんだ。誰かがこの番組を観て、良いミュージカルになるに違いないと思うのを待っていようと」と語った。 1991年、イエストン/コピット版はテキサス州ヒューストンにあるシアター・アンダー・ザ・スターズで『ファントム』として初演された。リチャード・ホワイトがファントム役、グローリー・クランプトンがクリスティーヌ・ダーエ役を演じた。全米ツアーを経て、その後も世界各地の1,000以上のプロダクションで上演されている。イエストンはこの作品について「ブロードウェイで上演していない作品で最大のヒット作」と語った。ロイド・ウェバー版に比べて、イエストン/コピット版は、1890年代を意識した曲調とオペレッタに近いスタイルを取り、舞台であるフランス、パリの雰囲気を色濃く出した作品になっている。青年エリックとしての人間性や出生の秘密、オペラ座前支配人ゲラール・キャリエールとの関係など、原作と大きく離れ、独自に掘り下げられた内容ではあった。ラウル役はそれほど大きく関わらない。
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