脅迫容疑で逮捕状請求
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:44 UTC 版)
「藤沢市母娘ら5人殺害事件」の記事における「脅迫容疑で逮捕状請求」の解説
捜査本部はDの「せめて納骨までには犯人を逮捕してほしい」という声に応えるため、懸命に捜査したが。事件直後から被疑者としてFの存在こそ把握していたものの、後述のようにFから知人への電話が掛かるまではその行方さえつかめず、新たな証拠なども特に見つからなかった。しかし事件発生から10日近くが経過した1982年6月4日夕方、Fは知人の少女に電話を掛け「今は横浜にいる。7日の夜7時(19時)ごろには平塚に向かう」と約束した。この情報を把握した捜査本部が「Fはまた誰かに電話を掛けてくる」と次の手がかりを持っていたところ、Fは翌日(6月5日)8時50分ごろになって、厚木市の元少年院仲間Z(かつて自分や被害者Xと同時期に久里浜特別少年院で在院していた)宅に電話を掛け、応対したZの父親に「息子 (Z) には『Xの事件のことを警察に話すな』と伝えろ。約束を破ったら一家を皆殺しにする。お前の妻の勤務先も知っているから、妻も強姦して殺すぞ」と脅した。さらにFはこの時、同伴していたY(同日夜に尼崎市内で刺殺)に対し「あいつ (Z) も殺すつもりだ。お前も手伝え」と告げ、Yは女性のような調子の声で電話相手の父親を脅した。同日昼過ぎ、Zの父親は「電話の主は声・話し方の特徴から、息子 (Z) の元少年院仲間で、自宅に2回ほど泊まったことがあるFに間違いない」と確信し、県警厚木警察署にこの脅迫電話の事実を届け出た。 捜査本部はそれまで神奈川県警の全46警察署(当時)中26署から1人ずつ捜査員を招集して捜査に当たりつつも、有力な証拠が得られないまま苦戦を強いられていたが、この(Fの犯行を裏付ける)有力な証拠である被害届提出を受け、6月8日には脅迫容疑で被疑者Fの逮捕状を請求した。そして残る20署からも新たに捜査員を動員し、主にFの交友関係の中心となっていた少年院当時の同室者などに重点を置きつつ、あらゆる方向へ捜査網を広げた。また、逮捕状発行に先立つ7日には新潟少年院の元少年院仲間(池袋在住)から「家にFが来た」と通報があったため、捜査本部はFを追跡するため、東京都心に最も近い川崎警察署に前線基地を設置し、都内に追跡班を派遣した。さらに捜査本部は聞き込みにより、別の少年院仲間から「埼玉県内にいる」という情報を得たため、埼玉県内に捜査員を派遣した。 その後も逃亡を続けたFだったが、藤沢事件で殺害されたA一家だけでなく、X・Y両名が殺害された2事件を含めて全被害者と接点があったことから、神奈川県警察捜査本部(県警本部捜査一課が藤沢警察署と合同で同署内に設置)から「被害者5人全員と交流関係があり、かつ藤沢事件以降に所在不明となっている」点から重要参考人として行方を追われた。また逮捕後には、以下の事実も被疑者Fの犯行を裏付けるものとなった。 被疑者Fが逮捕された際、その体には左手などに新しい刃物傷が多数あった点 (後にY事件への関与がほぼ断定された際に)両事件とも被害者の遺体にくり小刀が突き刺されており、犯行の手口が酷似している点 被疑者Fが犯行直前の27日19時ごろに共犯・被害者Yとともに自宅を出てから別件逮捕された6月14日まで姿をくらましていた点
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