背景と計画史の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 07:39 UTC 版)
琵琶湖水運の詳細については「琵琶湖#交通」を参照 琵琶湖唯一の流出河川である瀬田川は、宇治川・淀川と名前を変えて大阪湾に通じている。琵琶湖と大阪湾や伊勢湾との距離は約50キロメートル、日本海との最短距離は約20キロメートル、海水面と琵琶湖水面の高低差は約85メートルである。 北陸の物資は古代から、敦賀や小浜で荷揚げされた後、塩津・海津・今津から琵琶湖の水路を経た後、大津で陸揚げされて京都や大阪に運ばれてきた。しかしこの経路には、水路・陸路間の積替えのコストがかかるという欠点があり、江戸時代前期に西廻り航路が成立した後は、琵琶湖水運の地位低下が運河計画の理由に挙げられるようになった。また滋賀では琵琶湖の水位上昇による水害に悩まされてきた歴史があり、以降現代に至るまで治水も運河掘削の目的として挙げられてきた。 その後江戸時代中期には、享保の改革における新田開発奨励や田沼意次政権の殖産興業策を受け、「運河計画」の主目的は水運から新田開発へと移り、計画の内容も敦賀 – 琵琶湖間を直接運河でつなぐものから街道整備を含む交通整備へと変化している。このような計画は流通関係者や漁業関係者からの反発を受けることもあり、文化期や安政期には敦賀 – 疋田間に船川が通されたものの、陸路に対する優位性が低かったことも要因とし、いずれも長くは用いられなかった。異国船が渡来するようになった江戸末期には、西廻り航路に代わる琵琶湖経由の輸送という目的から運河計画が検討された。 日本海 – 琵琶湖間には山が聳えており、近世の土木技術によってこの間に水路を開通させることはきわめて困難であったと考えられる。その後昭和初期になると、パナマ運河のような閘門方式を採用した計画が立案されるようになり、大陸進出の国策のもと満州や朝鮮半島との交通も視野に入れられるようになる。高度経済成長期にも、第二次世界大戦後の国力回復などを目的として計画が立てられたが、その後モータリゼーションが進んだことにより水運の地位は低下した。
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