聖テレジア教会
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1912年(明治45年)7月25日より東京大司教区の大司教(教区長)に就任したジャン・ピエール・レイは、東京の要所に土地を購入し、聖堂建設の準備をした。1928年(昭和3年)6月3日、購入した麹町区下六番町38(現在の千代田区六番町10-1)の土地(約800坪)に、公教青年会会館が完成する。公教青年会は1931年(昭和6年)3月21日の総会で解散し、会館はカトリック中央出版部に移管された。1933年(昭和8年)1月29日には会館の北隣に印刷工場が完成し、それと前後して同敷地内に、カルメル修道会から来日する修道女を迎え入れるため、仮修道院及び聖堂が完成した。 カルメル修道会は、1935年(昭和10年)1月に板橋区上石神井町に移転したため、仮修道院はマリアの宣教者フランシスコ修道会の修道院として使用されることになり、建物は改造・増築され、聖堂は教区教会としての機能を持つようになった。翌1936年(昭和11年)3月22日、当時の東京大司教区大司教ジャン・アレキシス・シャンボンによって祝別式が行われ、麹町聖テレジア教会が誕生し、田口芳五郎が初代主任司祭に就任した。 麹町聖テレジア教会は上智大学に近いこともあり、設立当初からイエズス会の協力を受けた。1941年(昭和16年)にイエズス会員の大泉孝が主任司祭に就任すると、1940年(昭和15年)11月に上智大学総長を辞任していたヘルマン・ホイヴェルスは、教会司祭館に隠棲して司牧にあたった。 また、同敷地内のカトリック中央出版部とも関係を有しており、1937年(昭和12年)7月に日本カトリック新聞社が設立した際には、初代社長に田口芳五郎が就任している。 第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)末、聖堂は建物強制取り壊しの通知を受け、空家同然となっていたが、翌1945年(昭和20年)5月25日の東京大空襲により聖堂は焼失し、ホイヴェルスは上智大学の修道院に戻り、当時の東京大司教区大司教であった土井辰雄の許可を得て、上智大学のクルトゥルハイム聖堂でミサを行なうようになった。 1947年(昭和22年)春、上智学院は、焼け野原となった千代田区麹町6丁目1番地から9番地の土地(約7300坪)を購入し、同年7月には、上智大学の大学校舎内の講堂が修復され、この講堂でミサを行うようになった。また、この年にローマ教皇庁より復興資金が送付され、土井辰雄は資金のうち、20,000米ドルを麹町教会の再建に割り当てたが、この資金では足りず、再建計画を見直すこととなった。この時、駐日教皇使節のパウロ・マレラは、土井と上智学院長であったイエズス会員のブルーノ・ビッテルを招き、麹町教会の再建をイエズス会に委任する案を提示した。土井はこの案に同意し、同年8月26日、麹町小教区の司牧がイエズス会に委託された。翌1948年(昭和23年)5月22日には、教皇庁から「パリティチァ・レリギオザ・ペルマネンツ(永久に修道会に委任された教区教会)」として承認された。
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