聖テレジア教会とは? わかりやすく解説

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聖テレジア教会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:02 UTC 版)

聖イグナチオ教会」の記事における「聖テレジア教会」の解説

1912年明治45年7月25日より東京大司教区大司教教区長)に就任したジャン・ピエール・レイは、東京要所土地購入し聖堂建設準備をした。1928年昭和3年6月3日購入した麹町区六番町38現在の千代田区六番町10-1)の土地(約800坪)に、公教青年会会館完成する。公教青年会1931年昭和6年3月21日総会解散し会館カトリック中央出版部に移管された。1933年昭和8年1月29日には会館の北隣に印刷工場完成し、それと前後して敷地内に、カルメル修道会から来日する修道女迎え入れるため、仮修道院及び聖堂完成したカルメル修道会は、1935年昭和10年1月板橋区上石神井町に移転したため、仮修道院マリアの宣教者フランシスコ修道会修道院として使用されることになり、建物改造増築され聖堂教区教会としての機能を持つようになった。翌1936年昭和11年3月22日当時東京大司教区大司教ジャン・アレキシス・シャンボンによって祝別が行われ、麹町聖テレジア教会が誕生し田口芳五郎初代主任司祭就任した麹町聖テレジア教会は上智大学に近いこともあり、設立当初からイエズス会協力受けた1941年昭和16年)にイエズス会員の大泉孝主任司祭就任すると、1940年昭和15年11月上智大学総長辞任していたヘルマン・ホイヴェルスは、教会司祭館隠棲して司牧あたったまた、敷地内カトリック中央出版部とも関係を有しており、1937年昭和12年7月日本カトリック新聞社設立した際には、初代社長田口芳五郎就任している。 第二次世界大戦中1944年昭和19年)末、聖堂建物強制取り壊し通知を受け、空家同然となっていたが、翌1945年昭和20年5月25日東京大空襲により聖堂焼失し、ホイヴェルスは上智大学修道院戻り当時東京大司教区大司教であった土井辰雄許可得て上智大学のクルトゥルハイム聖堂ミサ行なうようになった1947年昭和22年)春、上智学院は、焼け野原となった千代田区麹町6丁目1番地から9番地土地(約7300坪)を購入し同年7月には、上智大学大学校内の講堂修復され、この講堂ミサを行うようになったまた、この年ローマ教皇庁より復興資金送付され土井辰雄資金のうち、20,000米ドル麹町教会再建割り当てたが、この資金では足りず再建計画見直すこととなった。この時、駐日教皇使節パウロ・マレラは、土井上智学院であったイエズス会員のブルーノ・ビッテル招き麹町教会再建イエズス会委任する案を提示した土井はこの案に同意し同年8月26日麹町小教区司牧イエズス会委託された。翌1948年昭和23年5月22日には、教皇庁から「パリティチァ・レリギオザ・ペルマネンツ(永久に修道会委任され教区教会)」として承認された。

※この「聖テレジア教会」の解説は、「聖イグナチオ教会」の解説の一部です。
「聖テレジア教会」を含む「聖イグナチオ教会」の記事については、「聖イグナチオ教会」の概要を参照ください。

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