耳嚢(文化11年(1814年)) の記述
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「善鬼」の記事における「耳嚢(文化11年(1814年)) の記述」の解説
一刀斎が諸国を修行していた折に、淀の夜船で大阪に下ることがあった。その船の船頭は怪力を誇り、一刀斎が木刀を携えているのを見て「剣術は人に勝つための道理だが我が力の前にはどんな達人も敵うまい」と言い立ち合いを申し込んだ。一刀斎は船頭が強剛であることを感じ取って勝負を受けるか考えたが「剣術修行に出た以上、たとえ命が果てようとも勝負から逃げるのは本意ではない」と思い、両者陸に上がって勝負することになった。船頭は船の櫂を片手で操り一刀斎の頭上に打ち下ろしたが、一刀斎は身を開いてこれ避け、振り下ろされた櫂はあまりの力で地面にめり込んだ。船頭が引き抜こうとした櫂を一刀斎は木刀で打ち落とし、船頭の両手を抑え込んだので船頭は負けを認めて弟子入りし、以後一刀斎に随行することとなった。 船頭は元々力量が優れていたこともあり、訪れた国々で一刀斎に挑む者の殆どの相手を務めて全て降し、敗れたものの中にはそのまま一刀斎の門下になる者も多かった。しかし船頭は元来下賤のものであった上に心根も曲がっており、淀で一刀斎に負かされたことを遺恨に思い一刀斎を殺したいと願うようになった。立ち合いでは一刀斎に勝てないので、夜中に寝静まったところを付け狙うことが数度におよんだが、一刀斎には隙が無く空しく供を続けて江戸まで来た。 江戸では徳川将軍家から一刀斎を召し抱えたいとの申し出があったが、一刀斎は諸国修行を理由に断って(船頭の弟弟子である)御子神典膳を推挙した。船頭は最初から一刀斎に従って共に流派を広めてきた自分を差し置いて末弟の典膳が推挙されたことを大いに恨み、一刀斎に対してこのまま生きていてもしょうがないので典膳と真剣で勝負を行って生死を決したいと訴えでた。一刀斎が答えて「確かに其の方は最初から従ってくれたが、これまで度々私を付け狙ってきたことには覚えがあるであろう。今まで生かしてきたのは特別の恩徳によるものである。しかし典膳と生死を争いたいという望みは叶えてやろう」と述べ、典膳を呼んで仔細を伝えて勝負するように命じた。そして事前に典膳に秘伝の太刀を伝授したので、立ち合いの結果船頭は敗れ、一刀のもとで露と消えた。
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