耳嚢) の記述とは? わかりやすく解説

耳嚢(文化11年(1814年)) の記述

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 22:30 UTC 版)

善鬼」の記事における「耳嚢(文化11年(1814年)) の記述」の解説

一刀斎が諸国修行していた折に、淀の夜船大阪に下ることがあった。その船の船頭怪力誇り一刀斎が木刀携えているのを見て剣術は人に勝つための道理だが我が力の前にはどんな達人敵うまい」と言い立ち合い申し込んだ一刀斎は船頭強剛であることを感じ取って勝負を受けるか考えたが「剣術修行出た以上、たとえ命が果てようとも勝負から逃げるのは本意ではない」と思い両者陸に上がって勝負することになった船頭は船の片手操り一刀斎の頭上打ち下ろしたが、一刀斎は身を開いてこれ避け振り下ろされはあまりの力で地面めり込んだ。船頭引き抜こうとした一刀斎は木刀打ち落とし船頭両手抑え込んだので船頭負け認めて弟子入りし以後一刀斎に随行することとなった船頭は元々力量優れていたこともあり、訪れた国々一刀斎に挑む者の殆どの相手務めて全て降し敗れたものの中にはそのまま一刀斎の門下になる者も多かった。しかし船頭元来下賤のものであった上に心根曲がっており、淀で一刀斎に負かされたことを遺恨思い一刀斎を殺したいと願うようになった立ち合いでは一刀斎に勝てないので、夜中寝静まったところを付け狙うことが数度およんだが、一刀斎には隙が無く空しく供を続けて江戸まで来た。 江戸で徳川将軍家から一刀斎を召し抱えたいとの申し出があったが、一刀斎は諸国修行理由断って船頭弟弟子である)御子神典膳推挙した船頭最初から一刀に従って共に流派広めてきた自分差し置いて末弟典膳推挙されたことを大い恨み一刀に対してこのまま生きていてもしょうがないので典膳と真剣で勝負行って生死決したい訴えでた。一刀斎が答えて確かに其の方最初から従ってくれたが、これまで度々私を付け狙ってきたことには覚えがあるであろう今まで生かしてきたのは特別の恩徳よるものである。しかし典膳生死争いたいという望み叶えてやろう」と述べ典膳呼んで仔細伝えて勝負するように命じた。そして事前に典膳秘伝太刀伝授したので、立ち合い結果船頭敗れ一刀のもとで露と消えた

※この「耳嚢(文化11年(1814年)) の記述」の解説は、「善鬼」の解説の一部です。
「耳嚢(文化11年(1814年)) の記述」を含む「善鬼」の記事については、「善鬼」の概要を参照ください。

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