翻訳・文芸批評(1947-)
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「吉田健一 (英文学者)」の記事における「翻訳・文芸批評(1947-)」の解説
1948年(昭和23年)に中村光夫、福田恆存と3人で始めた各界の専門家を客人として招いた集いが「鉢の木会」に発展する。 主な交友関係には戦前からは河上や中村光夫・横光利一の他に石川淳・大岡昇平・小林秀雄・白洲正子・福原麟太郎・福田恆存、戦後は三島由紀夫・ドナルド・キーン・篠田一士・丸谷才一らがいる。 1949年(昭和24年)4月、國學院大學非常勤講師となる。同年5月より日英交流のための団体、あるびよん・くらぶに参加。1951年(昭和26年)5月、チャタレイ裁判の弁護側証人として法廷に立つ。1953年(昭和28年)1月、東京都新宿区に転居。同年8月に福原麟太郎・河上徹太郎・池島信平と戦後初の渡英旅行。1958年(昭和33年)10月、同人雑誌『聲』発刊に参加。1960年(昭和35年)2月、河上徹太郎と金沢へ。以後吉田死去の年までの年中行事となる。同年12月、亀井勝一郎編集『新しいモラルの確立』に「信仰への懐疑と否定」を掲載。1963年(昭和38年)4月から1970年(昭和45年)3月まで中央大学文学部教授。1969年(昭和44年)7月より雑誌『ユリイカ』にて「ヨオロツパの世紀末」を連載 以後毎年多数の著作を刊行し続けていたが、1977年(昭和52年)にヨーロッパ旅行中に体調を崩し帰国即入院 、回復退院したが、8月3日に新宿区の自宅で亡くなった。戒名は文瑛院涼誉健雅信楽居士。同年8月5日、葬儀は近親者・友人のみで密葬が執り行われ、友人代表として挨拶した河上徹太郎はラフォルグの詩『簡単な臨終』の一節を誦んだ。
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