羽田事件が与えた影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/08 08:33 UTC 版)
第一次羽田事件後、秦野章警視総監は以下のように語り、事件に対する怒りと今後は学生らに対し厳しい取り締まりを行う決意を表明した。 学生の行動は破壊のための破壊だ。首相が羽田を飛び立ってからの破壊活動であり、首相の外遊阻止運動とは根本的に違うものだ。警視庁の警備体制としては"内張り作戦"つまり空港域内に学生を入れない作戦をとった。あそこまでむちゃにやるとは思わなかった。その点、素直に事前の情報収集が甘かった点は認めなければならない。それにしてもアナーキストなら破壊のための破壊も考えられるだろうが、大学生ともあろうものが、完全に暴徒に成り下がるとは心外であり、今後は暴力団として扱う。こん棒や石ころを持っていれば凶器準備集合罪で逮捕する。学生たちは前夜から大学に泊まり込み、こん棒や石ころを集めていたというが、こんな暴力団の殴り込み的な集合を大学が許しておいていいものだろうか。 第一次羽田事件は、機動隊に大盾が装備されておらず、投石や角材による殴打で多数の機動隊員が負傷したことをきっかけに、軽合金製の大盾の装備化が急速に進められることとなった。 第一次羽田事件は、新左翼が単独で起こした初の暴力デモであり、60年安保闘争での樺美智子以来となる死者を出しながら新左翼と機動隊の間で激しい攻防が行われる大事件となった。一方、革新政党の日本共産党は同じ日に多摩湖畔で安穏と赤旗まつりを開催していた。共産党は機関紙赤旗で「一部暴力学生集団の挑発」と実力闘争を批判するが、「闘う新左翼、闘わない既成左翼」という印象が当時の学生に流布された結果、新左翼の過激な闘争が、この後の日本の学生運動の中で支持を広げることとなった。 この闘争は新左翼の間で範とされ、以後各地で実力闘争(暴動)が頻発することになった。特にこの事件で初めて本格的に登場したゲバヘルとゲバ棒のスタイルは以降の新左翼による実力闘争に引き継がれ、公権力との暴力の応酬をエスカレートさせるきっかけとなり、70年安保闘争や三里塚闘争等にも飛び火していくこととなる。 羽田事件から翌年4月の沖縄デー闘争までの七ヶ月間は、新左翼による大規模な実力闘争がいくつも行われ、「激動の七ヶ月」と呼ばれる。この間に新左翼のデモのあり方は、前述のヘルメット・ゲバ棒の定着をはじめ、大きく変化した。 羽田事件から1971年末までの間に、日本の警察は新左翼による実力闘争の沈静化のために、殉職者6人 と負傷者1万8,784人の犠牲を払うことになる。
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