練習特務艦として
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1923年(大正12年)にワシントン軍縮条約により練習艦として保有が許されたので兵装、装甲を撤去し練習特務艦となった。同年4月1日、3隻(敷島、朝日、須磨)は軍艦籍より除籍され、艦艇類別等級表からも削除された。敷島と朝日は練習特務艦に類別された。1924年(大正13年)7月、海防艦石見が航空機(基地航空隊や空母鳳翔航空隊)の標的として処分されることになった。演習海域の三浦半島城ヶ島西方まで、朝日は石見を曳航した。沈まない場合は、駆逐艦浦風による撃沈処分が予定されていた。だが7月9日以降の爆撃実験で大破、石見は沈没した。 このころに第70潜(呂31)、第43潜(呂25)と潜水艦事故が続けて起こった為、1925年(大正14年)に潜水艦救難設備を設置した。これは舷側にブラケットを設置し、これを支点として片舷に沈没潜水艦を位置させ、反対舷に廃潜水艦を置いてワイヤで結び、つるべ式に比較的少ない力で沈没潜水艦を浮上させようという原理だった。改造の際に機関部の改装をおこない、一本煙突となっている。朝日は呉に常駐し潜水艦事故に備えていた。 1927年(昭和2年)5月19日からは〇一潜水艦を沈没潜水艦を浮揚する際の錘(沈錘船)として改装し、1932年(昭和7年)4月1日に雑役船公称第2929号が登場してからは〇一潜水艦改め公称第2900号を重錘に、公称第2929号を沈没潜水艦に仕立てての潜水艦救難実験・訓練に従事する。 1937年(昭和12年)5月31日、沈錘船2隻が老朽化したことや、朝日が工作艦へ改装される際に救難設備を撤去することが決まったため、沈錘船は製鋼材料とすることとなった。朝日は工作艦への改装と同時に救難設備を撤去し、公称第2900号、公称第2929号は同年6月26日に廃船となった。朝日の救難設備が事故に使用されることはなかった。朝日にかわり、知床型給油艦の佐多が潜水艦救難艦に改造された。 また、朝日は1928年(昭和3年)には試製呉式一号射出機を仮装備し、日本海軍初の射出実験を行った。撤去された前部主砲は、海軍砲術学校の教材として泊浦海岸に据え付けられた。
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