統一社会党の成立
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1905年、急進社会党が中産階級との接近を強めて社会主義諸勢力の抑圧を図ったことを背景として、諸勢力の結集が促され統一社会党(社会党)が成立した。当初よりブルムは社会党に加わり、社会党屈指の論客として活躍した。大戦勃発直前の1914年、反戦を訴えていたジョレスが狂信的右翼に殺害されるという悲劇を受け、ブルムは社会党内でより主導的な役割を担うようになった。1914年から1916年にかけては、公共事業相となったマルセル・サンバの官房長を務めた。1919年の総選挙にパリ東部の選挙区から出馬して当選し、1920年末のトゥール党大会での社会党分裂とフランス共産党の結党の際には社会党に留まり、以後党のリーダーと目されるようになる。左派が躍進した1924年の総選挙では再選されるも、1928年の総選挙では右派が議席を伸ばす中落選。翌29年の補選でフランス南部のオード県ナルボンヌから出馬し、下院議員に返り咲いた。以後、1932年と1936年の選挙ではナルボンヌで当選を重ね、1940年に第3共和制が崩壊するまで下院議員を務めた。 1917年、ロシア革命によってソ連が成立すると、この評価をめぐって社会党は分裂を余儀なくされた。ブルムは社会主義的な理念を尊重するものの、レーニン主義、ボリシェヴィキ独裁を否定する姿勢をとった。一方、ロシア革命を評価してレーニン主義に基づく革命路線を志向する勢力は党を離れ、フランス共産党を組織することになった。 その後、ブルムらの社会党と離党した共産党の連携はみられなかったが、1933年に隣国ドイツでアドルフ・ヒトラーが権力を獲得したことと、1934年2月6日のコンコルド広場・下院議事堂前での議会政治に反対する右翼勢力による騒擾事件(1934年2月6日の危機)の発生などで事態が変化する。ファシズム政権成立を受けて、ソ連は従来までの「社会ファシズム論(共産党が社会民主主義政党を社会主義革命実現の敵とみなす考え)」を放棄して、ファシズム勢力のこれ以上の台頭を阻止するために反ファシズム勢力の結集(人民戦線の結成)を図った。この方針は1935年のコミンテルン第7回大会で採択され、フランスでも社会党と共産党の連携が実現した。1936年の選挙は社会党、共産党、急進社会党などによる人民戦線が376議席(社会党は147議席で第一党)を獲得して勝利(敗れた右派勢力は222議席)し、ブルムを首班とした人民戦線内閣が6月4日 成立した。
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