結婚、革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/16 14:24 UTC 版)
「キリル・ウラジーミロヴィチ」の記事における「結婚、革命」の解説
1905年10月8日、従妹にあたるザクセン=コーブルク=ゴータ家のヴィクトリア・メリタ王女と結婚した。ヴィクトリア・メリタの父のザクセン=コーブルク=ゴータ公アルフレートはイギリスのヴィクトリア女王の次男であり、母はアレクサンドル2世の娘でキリルの父方の叔母マリヤ・アレクサンドロヴナ大公女だった。 この結婚は、ヴィクトリア・メリタが4年前に最初の夫でやはり従兄だったヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒと離婚していたために、ヨーロッパ諸国の宮廷で大きな醜聞として取り沙汰された。さらに悪いことに、エルンスト・ルートヴィヒは皇帝ニコライ2世の皇后アレクサンドラ・フョードロヴナの兄だった。皇后はかつての義姉で従妹でもあるヴィクトリア・メリタを毛嫌いしており、このことがロシア宮廷内のキリル大公の結婚に反対する空気をさらに助長した。キリル夫妻がロシアに帰国して間もなく、ニコライ2世はキリルの皇族年金の受給資格と「Его Императорское Высочество」の敬称、これまで与えられてきた栄典と勲章、そして海軍軍人としての軍籍を剥奪した。キリルは国外への亡命を余儀なくされた。 しかし1909年に父のウラジーミル大公が死去してキリルが帝位継承権第3位となると、ニコライ2世はキリルを海軍大佐および皇帝副官の地位に復帰させた。ヴィクトリア・メリタも宮廷の歓迎を受けてロシア大公妃の称号を与えられ、以後ロシアではヴィクトリヤ・フョードロヴナ大公妃殿下と名乗るようになった。 ヴィクトリア・メリタとの間には3人の子供が生まれた。 マリヤ(1907年 - 1951年) - ライニンゲン侯カールと結婚 キーラ(1909年 - 1967年) - プロイセン王子ルイ・フェルディナントと結婚 ウラジーミル(1917年 - 1992年) - 父に引き続きロシア帝室家長を名乗る 1909年 - 1910年には巡洋艦「オレーク」の先任士官、1912年1月 - 9月には同艦艦長を務めた。1914年7月、最高司令官附属海軍局事務・委任参謀将校。1915年3月から親衛乗組員長、同年2月から海軍砲術部長を兼任。 1917年に二月革命が勃発してニコライ2世が退位を余儀なくされると、キリルは麾下の連隊と一緒に臨時政府に忠誠を誓い、制服に革命支持を表す赤色のリボンを付けた。この行為は帝室の人々から裏切りとして激しい非難の的になり、後に帝室の多くのメンバーがキリルを正統なロシア帝位請求者と認めなくなる要因を作った。十月革命が勃発すると、キリルは妻子を連れてフィンランド経由でドイツのコーブルクに亡命した。そしてその後フランスに移り、残りの半生を過ごすことになった。
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