結婚、西オーストラリア州、未亡人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 13:56 UTC 版)
「アナ・リオノウンズ」の記事における「結婚、西オーストラリア州、未亡人」の解説
1849年末、リオノウンズはインドのプネーにある実家に戻り、継父と母の反対を押し切って幼馴染で文官事務職のトーマス・リオン・オウエンズと結婚した。のちにトーマスは「リオン」と「オウエンズ」を合わせて姓を「リオノウンズ」と名乗るようになった。 1852年、2人は叔父のW・V・グラスコットと共にバークのアリビ号でシンガポールを通りオーストラリアへ航海した。シンガポールからの航海は長く、その間リオノウンズは息子を出産して夫と同じ「トーマス」と名付けた。1853年3月8日、西オーストラリア州の海岸近くでアリビ号はあやうく暗礁に乗り上げるところであった。10日後、リオノウンズ、夫トーマス、息子トーマス、グラスコットはパースに到着した。グラスコットと夫トーマスはすぐに植民地統治の事務職に就いた。1853年終盤、グラスコットはリントン法務局のある狭く遠いリントンで公立食糧倉庫番の職を得た。グラスコットは行政長官ウィリアム・バージェスとしばしば衝突するようになった。3年しないうちにグラスコットはインドに戻って教職に就いたが、1856年に急死した。 リオノウンズはミドルネームの「ハリエット」を使用し、女子校を創立しようとした。1854年3月、息子トーマスが13か月で亡くなり、同年後期娘アヴィス・アニーが生まれた。1855年、夫トーマスはリントンでグラスコットがいた地位に就き、一家はリントンに転居した。リントンでリオノウンズは息子ルイスを出産した。1856年後期、夫トーマスはウィリアム・バージェスのもとで短期間働いた。グラスコット同様、トーマスはバージェスと衝突したが、1857年に施設が閉鎖されるまでなんとか持ちこたえ、パースの食糧倉庫に配置換えとなり、より上の地位に就いた。 1857年4月、リオノウンズ一家は突然オーストラリアを離れ、シンガポールに航海し、その後マレーシアのペナン州に移転し、トーマスはホテル経営者の職を見つけた。1859年5月第1週頃、トーマスは脳卒中で亡くなり、5月7日、ジョージタウンにあるプロテスタント墓地に埋葬された。トーマス没後、リオノウンズは未亡人となり困窮した。4人の子のうち2人は幼少期に亡くなっていたが、残った娘アヴィスと息子ルイスを養うためにリオノウンズは教職に就き、シンガポール在住のイギリス人の子息のための学校を創立した。事業が軌道に乗るまでの間、教育者としての評判を上げていった。
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