経済分野の強制的同一化
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「ナチス・ドイツの経済」の記事における「経済分野の強制的同一化」の解説
「強制的同一化」も参照 政権獲得後の1933年2月1日にヒトラーは国民へのラジオ放送で「二つの偉大な四カ年計画」として第一次四カ年計画の開始を発表し、失業者の削減と自動車産業の拡大を訴えた。しかし、その後にナチ党は国会議事堂放火事件(2月27日)後の二つの大統領緊急令、全権委任法によってきわめて強力な独裁権力を確立した(ナチ党の権力掌握)。ナチ党がまず行った経済政策は、ナチ党の思想に基づくよう政治・経済・産業界を再構成する強制的同一化であった。失業対策は前政権のパーペン計画・緊急計画を踏襲するのみで、労働政策のとりまとめが開始されたのは5月1日になってからだった。3月にはライヒスバンク総裁ルターがナチ党と対立して更迭され、ナチ党の支持者であったシャハトが再任された。シャハトは8月からは経済相も兼ね、1935年5月21日には戦争経済全権にも就任、この後の経済政策を主導することになる。 5月2日にはすべての労働組合は解散され、ロベルト・ライが率いるドイツ労働戦線に一本化された。これにより労使関係調整はナチ党の手中に落ちた。7月15日には強制カルテル法が施行され、新規企業設立の禁止、同業企業によるカルテル設立の強制と、国家による監視と規制が行われる体制が始まった。9月13日には帝国食糧団体暫定設立法によって分野別の経済団体が設立され、国がその指導者を任命することで経済活動を統制する仕組みが定められた。指導者制度はナチズムの基本概念である指導者原理に基づくものであり、経済団体は国家の下部機構として動くようになった。11月16日には価格停止令が布告され、商品の価格と原価の管理を国が行うこととになった。 1934年2月には経済有機的構成準備法が施行され、企業は各分野の経済集団(Wirtschaftsgruppe)もしくはライヒ工業集団(ドイツ語版)の地方組織に入ることが義務づけられた。7月、シャハトは経済措置法によってから9月までの間、既存の法律の枠を超える権限を手に入れた。この権限に基づき8月20日には商工会議所令が発せられ、商工会議所の権限が拡大された上で、経済大臣が会頭・副会頭の任免権を含む監督権を持つこととなった。これによって商工会議所の主要人事の大半はナチ党関連の人物が占めることとなり、全国の中小企業もナチ党体制に組み込まれた。こうした企業統制化の影響で、株式会社数は1933年の9148社から1934年8618社、1935年7840社、1936年7204社と明確に減少し、資本集中が顕著となった。
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