経済不況による経営危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 15:05 UTC 版)
「愛知電気鉄道」の記事における「経済不況による経営危機」の解説
愛電は既存路線の延伸と同時に、前述した東陽町線のほか、熱田より有松・知立方面へ至る「有松線」・尾張横須賀より分岐して知多郡半田町へ至る「半田線」・常滑より知多郡内海町へ至る「内海線」の計4路線の敷設免許を申請し、内海線は1912年(大正元年)8月に、半田線は同年12月に、東陽町線および有松線は翌1913年(大正2年)2月にそれぞれ免許された。同時にこれら新規路線の建設費用に充当するため、1913年(大正2年)5月に新株を発行して資本金を200万円に増資した。 しかし、同時期に顕著となりつつあった経済不況の影響によって新株の未払込金徴収は遅滞し、そのため前述した神宮前 - 秋葉前間の建設費用を借入金にて賄わざるを得ない状況に陥った。さらに神宮前 - 常滑間全線開通後の路線収益は建設に要した費用に対して到底見合うものではなく、計画路線を全て着工することは資金的に困難となった。そのため、名古屋市内への乗り入れにあたって名古屋電気鉄道など他事業者との調整に時間を要することが予想された東陽町線については一旦建設計画を休止し、地元住民より要望の高かった有松線・半田線の着工を優先することとした。 両路線の建設資金調達に尽力した矢先、名古屋市の旭遊廓の移転問題に絡む疑獄事件が発生し、兼松ら3名の愛電取締役が関与していたことが発覚、兼松と常務取締役の安東敏之の2名が詐欺罪で起訴される事態が生じた。これにより、不況に加えて会社に対する不信感から株価が急落するなど、愛電を取り巻く環境はさらに厳しさを増していった。1913年(大正2年)5月から同年11月にかけて、兼松を始めとする役員の大半が辞任したことを受け、同年12月に監査役であった藍川のほか、伊藤由太郎・井深基義の計3名が取締役に就任、経営の建て直しを図った。 さらに翌1914年(大正3年)には、かねてから健康状態悪化により出社もままならない状態であった社長の岩田作兵衛が辞意を表明した。藍川らは翻意に努めたものの岩田の辞意は固く、協議の結果、後任として当時名古屋電灯の常務取締役であった福澤桃介を招聘することで合意した。福澤との交渉には名古屋電灯の監査役であった当時から親交の深かった藍川があたり、福澤も藍川の申し出を承諾して、1914年(大正3年)8月16日に開催された臨時の株主総会において岩田の子息である岩田新之助とともに取締役に選出され、同月19日の役員会において正式に取締役社長に就任した。 福澤体制となった直後、愛電は半田線の建設を中止し、有松線の建設に注力することを決定した。半田線は測量を終え境界標を設置し、敷設する軌条(レール)を入手する段階まで準備が進められていたが、新株の未払込金徴収遅滞などにより資金調達の見込みが全く立たなかったことに加えて、半田線は鉄道院武豊線と競合する路線であることから、沿線人口が多く収益が期待できる有松線を優先して建設すべきとする意見が社内で大勢を占めたことによるものであった。しかし、同時期には不況による経営悪化が加速度的に進行し、新規借入金を以前の借入金返済に充当せざるを得なくなるなど自転車操業状態に陥り、既に入手した軌条を有松線建設分のみを残して転売し資金を捻出することまで行われた。結局、東陽町線は1915年(大正4年)8月に、内海線は同年11月に、半田線は同年12月にそれぞれ免許が失効し、いずれも実現しなかった。
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