素人芸から人気俳優へ
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1925年に早稲田大学を中退し文筆活動に専念する。翌年には雑誌編集の傍ら、宴会での余興芸の延長線上として当時親交のあった徳川夢声らとナヤマシ会を結成し演芸活動を開始。それまで寄席芸で「形態模写」と呼ばれていた物真似に「声帯模写」と名付けるなど、モダンな芸風も仲間内の受けが良かった。 1930年、菊池の後援で『映画時代』の独自経営に乗り出すが失敗、多額の負債を抱える。雑誌休刊後は東京日日新聞の嘱託として映画のレビューや映画関係の書物の執筆、雑誌『漫談』の編集などを行う。1931年には俳優として五所平之助監督の『若き日の感激』や田中栄三監督の『浪子』などの映画に出演した。 その後、素人芸ながら達者なところを買われ、菊池寛や小林一三の勧めで喜劇役者に転向。1932年1月、兵庫県宝塚中劇場公演『世界のメロデイー』でデビューを果たす。このときはロッパの我儘に対する小林の厚意で、フィナーレは花吹雪の中大階段を降りながら歌う演出、千両役者にちなんで千円の祝儀をもらうという破格の待遇を受けながら、肝心の芝居のほうは本人も恥じ入るほどに散々な出来だった。 そのような失敗を乗り越え、1933年には浅草で夢声・大辻司郎・三益愛子・山野一郎らと劇団・笑の王国を旗揚げした。その内容は、ロッパの人脈を活かしたナヤマシ会関係者や他劇団、映画関係者などの寄せ集めによるアチャラカと呼ばれる軽いナンセンス喜劇が中心だった。「前受けばかり狙ったお粗末至極」 なものばかりで、スケジュールは、一日2回から多い時は3回半の公演、約2週間ごとに出し物が変わるというハードなもので、のちにロッパが「思いもかけないことだ!」 と回想するほどの苦戦を強いられたが、このとき後にコンビを組む脚本家菊田一夫と出会い、自作の『凸凹放送局』、『われらが忠臣蔵』などがヒットする。彼のアチャラカ芝居への熱情は、チャップリンや曾我廼家五郎、曾我廼家喜劇への傾倒から来たもので、喜劇への第一歩も菊池からの「モダン曾我廼家になりたまえ」の一言だった。
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