素人芸から人気俳優へとは? わかりやすく解説

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素人芸から人気俳優へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 09:21 UTC 版)

古川ロッパ」の記事における「素人芸から人気俳優へ」の解説

1925年早稲田大学中退し文筆活動専念する翌年には雑誌編集傍ら宴会での余興芸の延長線上として当時親交のあった徳川夢声らとナヤマシ会を結成し演芸活動開始それまで寄席芸で「形態模写」と呼ばれていた物真似に「声帯模写」と名付けるなど、モダンな芸風仲間内の受けが良かった1930年菊池後援で『映画時代』の独自経営乗り出す失敗多額負債抱える。雑誌休刊後東京日日新聞嘱託として映画レビュー映画関係の書物執筆雑誌漫談』の編集などを行う。1931年には俳優として五所平之助監督の『若き日感激』や田中栄三監督の『浪子』などの映画出演したその後素人芸ながら達者ところを買われ菊池寛小林一三勧め喜劇役者転向1932年1月兵庫県宝塚中劇場公演世界のメロデイー』でデビューを果たす。このときはロッパ我儘対す小林厚意で、フィナーレ花吹雪中大階段降りながら歌う演出千両役者にちなん千円祝儀をもらうという破格待遇を受けながら、肝心芝居のほうは本人恥じ入るほどに散々な出来だった。 そのような失敗乗り越え1933年には浅草で夢声・大辻司郎三益愛子山野一郎らと劇団笑の王国旗揚げした。その内容は、ロッパ人脈活かしたナヤマシ会関係者や他劇団映画関係者などの寄せ集めによるアチャラカ呼ばれる軽いナンセンス喜劇中心だった。「前受けばかり狙ったお粗末至極」 なものばかりで、スケジュールは、一日2回から多い時は3回半の公演、約2週間ごとに出し物が変わるというハードなもので、のちにロッパが「思いもかけないことだ!」 と回想するほどの苦戦強いられたが、このとき後にコンビを組む脚本家菊田一夫出会い自作の『凸凹放送局』、『われらが忠臣蔵』などがヒットする彼のアチャラカ芝居への熱情は、チャップリン曾我廼家五郎曾我廼家喜劇への傾倒から来たもので、喜劇への第一歩菊池からの「モダン曾我廼家になりたまえ」の一言だった。

※この「素人芸から人気俳優へ」の解説は、「古川ロッパ」の解説の一部です。
「素人芸から人気俳優へ」を含む「古川ロッパ」の記事については、「古川ロッパ」の概要を参照ください。

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