第4次航海とは? わかりやすく解説

第4次航海(1413年-1415年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 14:35 UTC 版)

鄭和」の記事における「第4次航海(1413年-1415年)」の解説

これまでの3度航海成功受けて永楽帝コーリコードよりさらに遠方船団を送ることを決定したこのため入念な準備が必要となり、それまで航海帰着後2カ月から3カ月程度再度出発していたのに対し、第4次航海は帰着1年半後に行われることとなった。この準備期間の間に鄭和故郷昆陽戻って祖先祭祀行っている。また、その途中立ち寄った西安においてペルシア人通訳雇っている。またこの航海参加した馬歓(中国語版)により、後に『瀛涯勝覧えいがいしょうらん)』が編まれることとなった永楽11年1413年)冬に出航した鄭和艦隊コーリコードへ至るまではそれまでとほぼ同じ航路取り、そこから本隊はさらに西へ航海してペルシア湾岸のホルムズ到着した。ここで鄭和外交通商行った後に同一経路たどって帰路につき、永楽13年1415年7月帰国した一方スマトラ別れた分遣隊はさらに西へ向かってモルディブ到着し、さらにインド洋をまっすぐ横断してアフリカ東岸モガディシオへと到着した。さらに分隊南進し、ブラバ、ジューブ(現在のジュバランド)といったスワヒリ都市経由してスワヒリ文明中心都市一つだったマリンディ現在のケニア)にまで到達した。ここで分隊北へ転じラスール朝統治にあったアラビア半島南部アデン向かい、そこからラサ中国語版)(現在のムカッラー周辺)やドファールといったアラビア半島南岸港湾都市経由してホルムズ到着し、そこから往路通って明へと帰着した分隊帰着本隊よりも1年遅れ、永楽14年1416年)の夏となった帰路途中、サムドラ・パサイで、反逆者セカンダルに王位簒奪されていた現地の王ザイン・アル=アビディンの要請を受け、鄭和は兵を使ってセカンダルを捕らえてザイン・アル=アビディンに王位取り戻させた。 明代以前中国商人活動範囲の西限は慣例的にインドマラバール海岸にある交易港クーラム・マライ(コッラム)とされていたが、この第4次航海以降ホルムズ主な拠点としインド洋西海域に進出するようになった

※この「第4次航海(1413年-1415年)」の解説は、「鄭和」の解説の一部です。
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