第4次航海(1413年-1415年)
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「鄭和」の記事における「第4次航海(1413年-1415年)」の解説
これまでの3度の航海の成功を受けて、永楽帝はコーリコードよりさらに遠方に船団を送ることを決定した。このため入念な準備が必要となり、それまでの航海が帰着後2カ月から3カ月程度で再度出発していたのに対し、第4次航海は帰着後1年半後に行われることとなった。この準備期間の間に鄭和は故郷の昆陽に戻って祖先の祭祀を行っている。また、その途中立ち寄った西安においてペルシア人通訳を雇っている。またこの航海に参加した馬歓(中国語版)により、後に『瀛涯勝覧(えいがいしょうらん)』が編まれることとなった。 永楽11年(1413年)冬に出航した鄭和艦隊はコーリコードへ至るまではそれまでとほぼ同じ航路を取り、そこから本隊はさらに西へ航海してペルシア湾岸のホルムズに到着した。ここで鄭和は外交と通商を行った後に同一経路をたどって帰路につき、永楽13年(1415年)7月に帰国した。一方スマトラで別れた分遣隊はさらに西へと向かってモルディブに到着し、さらにインド洋をまっすぐ横断してアフリカ東岸のモガディシオへと到着した。さらに分隊は南進し、ブラバ、ジューブ(現在のジュバランド)といったスワヒリ都市を経由してスワヒリ文明の中心都市の一つだったマリンディ(現在のケニア)にまで到達した。ここで分隊は北へと転じ、ラスール朝の統治下にあったアラビア半島南部のアデンに向かい、そこからラサ(中国語版)(現在のムカッラー周辺)やドファールといったアラビア半島南岸の港湾都市を経由してホルムズに到着し、そこから往路を通って明へと帰着した。分隊の帰着は本隊よりも1年遅れ、永楽14年(1416年)の夏となった。 帰路の途中、サムドラ・パサイで、反逆者セカンダルに王位を簒奪されていた現地の王ザイン・アル=アビディンの要請を受け、鄭和は兵を使ってセカンダルを捕らえてザイン・アル=アビディンに王位を取り戻させた。 明代以前、中国商人の活動範囲の西限は慣例的にインドのマラバール海岸にある交易港クーラム・マライ(コッラム)とされていたが、この第4次航海以降、ホルムズを主な拠点としインド洋西海域に進出するようになった。
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