第2版および第3版
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Институт Ленина при Ц.К. В.К.П.(б.) (ред.), «В.И. Ленин Сочинений», Изд. 2-е., В 30 т. Государственное Издательство. Москва -Ленинград, 1925-32 г.г. Институт Ленина при Ц.К. В.К.П.(б.) (ред.), «В.И. Ленин Сочинений», Изд. 3-е., В 30 т. Государственное Издательство. Москва -Ленинград, 1925-32 г.г. 『レーニン全集』第2版は、レーニン死去後の、1924年の第2回ソビエト連邦ソビエト大会の決定に基づいて、1925年から1932年にかけて全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会付属レーニン主義研究所によって「レーニンの著作集」として編纂された。なお、同研究所は1931年にマルクス=エンゲルス研究所と合併して、マルクス=エンゲルス=レーニン研究所(初代所長:ウラジーミル・アドラツキー)となっており、第28巻以降この研究所名で発行されている。編集責任者には引き続きカメーネフが当たったが、彼の失脚により、第4巻からはニコライ・ブハーリン、ヴャチェスラフ・モロトフ、イワン・スクヴォルツォフ=ステパノフに代わり、さらにブハーリンの失脚によって第26巻からはアドラツキー、モトロフ、М.А.サヴェリエフに代わっている。 『レーニン全集』第3版は、第2版の普及・廉価版として並行して刊行された。内容は第2版と同じであるが、廉価版であるため一部の印刷などに難があるとされる。第2版および第3版は、全30巻からなり、第1~27巻が著作に加えて巻末付録にロシア共産党大会の決定事項やソビエト連邦の重要法令を収め、第28・29巻が書簡、第30巻が補巻となっている。その後、著作総目録、人名・件名索引などを収録した『便覧』が1935年に刊行された。このように、第2・3版は、索引、事項や人名の注、レーニンが引用・言及した文献についての詳しい解説やリストが存在し全体の3割に達するという、配慮の行き届いたものであった。約2700項目を収録し、各巻平均で第2版が10万部、第3版が56万部が発行された。しかし、個々の著作に脱落や原本との背反、配列などに問題があったほか、スターリン指導下の全連邦共産党(ボ)中央委員会によって「きわめて大きな政治的誤り」があると認定されるに至った。 また、第2・3版の刊行と同時に、『レーニンスキー・ズボールニク』(Ленинский Сборник) も刊行された。これは、レーニンの生涯と活動を明らかにするための資料を蒐集・刊行したもので、新発見の著作、手紙、電報などのほか、論文執筆のためのプラン、メモ、草稿、レーニンが読んだ本・雑誌・新聞などからのノート、演説の下書きといった著作集に収録しにくいものまでを集めている。
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