第2回全国ストライキと運動の収束
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「チリでの学生運動 (2006年)」の記事における「第2回全国ストライキと運動の収束」の解説
2006年6月3日、高校生調整会議はInternado Nacional Barros Arana校で打合わせを行った。しかし、会議では強硬派と妥協派の対立が起こった。この後、議長のセサル・バレンスエラは辞任を表明した(ただし理由は「病気の母の看病」)。この頃からさまざまな憶測、例えばサンティアゴやプロビデンシア(英語版)の伝統校のいくつかがジリッチ教育長官と個別に会談しているであるとか、強硬派のチリ共産党のスポークスマンであるマリア・サンウェーサが辞めさせられた、などが広がっていった。高校生調整会議はこれらの噂話を否定し、運動を弱めるための政府の策略であるとの見解を発表した。 100以上のグループが6月5日月曜のストライキを支持し、左翼団体マヌエル・ロドリゲス愛国戦線(英語版)(FPMR)の呼びかけによる抗議デモにも参加する旨を表明した。ただし、学校内での平和的活動をすべきだという学生リーダーも少なくなかった。FPMRの誘いに関しては政府の拒絶反応が強く、政府事務局長のリカルド・ウェベール(英語版)は「非難すべきことである(repudiable)」と発言している。それに対して学生らは、FPMRが自身の考えでデモをするのは自由であるが、その責任は全て彼らがとるべきであるとの見解を表明した。 結局そのストライキは、予定通り月曜日に実施され、高校生に加えて大学生、高校教師、トラック運転手、労働者の組合も協力した。午前中は、プラサ・イタリアの付近での無許可のデモ行進や、タイヤが2箇所ほどで放火されるなど若干の小競り合いがあったものの、概ね平静に進められた。活動内容は、国内の場所によって差が見られた。プンタ・アレーナスでは活動がほとんどなかったが、ビオビオ州では140以上、イキケでは58、コイアイケでは9の組織が学生らに占拠された。イースター島には高校が1つしかなかったが、そこでも実施された。平和的デモ行進は、オソルノ、プエルトモント、ラ・セレーナ、バルパライソなどで1万2千人が参加して行われた。 サンティアゴでは、占拠された学校の大部分で、校内で文化的に抗議活動が行われた。最も大規模な活動をしたのはインスティトゥート・ナショナルとチリ大学メインキャンパス付近のものだった。しかし、午後になると次第に暴力沙汰が多くなり、チリ警察が動員される騒ぎとなった。その後に警察は催涙ガスや放水でインスティトゥート・ナショナルに攻撃をしかけた。それは、学生センター長のヘルマン・ウェストホフに言わせれば警察による挑発行為だった。この日、この騒ぎで240人が拘留された。 6月6日、学生集会は内政担当長官宛に手紙を書き、6月1日にバチェレ大統領が提案した大統領諮問委員会について詳しい議論をしたいと申し入れた。その委員会は学生、教師、学校管理者、教育の専門家、その他を含み、その半数が学生でなければならないとも要求された。しかし、政府はそれを決めるのは大統領の権限であるとして、学生側の要求を蹴った。6月7日、大統領は73人のメンバーを発表した。その内、高校生の席は6つだった。 チリの大手紙エル・メルクリオ(英語版)は6月7日、サンティアゴで50の学校、全国で175の学校がストライキを終了し、平常状態に戻った。別の新聞ラ・テルセーラ(英語版)によれば、ストライキを終了した学校は約500であった。 6月9日、学生集会は委員会に出席し、ストライキと学校占領を中止することに合意した。
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