第10編の内容とは? わかりやすく解説

第10編の内容

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 08:32 UTC 版)

支那思想及人物講話」の記事における「第10編の内容」の解説

一高旧寮居た頃。ある秋の夜ドイツ語勉強にも飽いて古書でも漁って見よう校庭横切って図書館に来た。漢籍カードをぱたりと繰ると、真っ先湛然居士集というのが出た湛然居士とは誰ぞや。知らぬ号なり。書名の下の著者の名を火影透して覗くと、イタリックで元、耶律楚材と書いてあった。さてはあの蒙古大宰相のことかと知ると、忽ち筆者は言うに言え一種心の慄きを覚えて、早速閲覧紙に書名や函号を認めて、やがて係員持って来た四冊の古めかしい茶色書物引奪くるように受け取って閲覧室の隅に逃れた。一番上に在った巻を開いて見た華城にて萬松老人夢むという詩題が眼に映った。「かつて活句参してほとんど青眼未だ生きて侯たるを得ずすでに白頭。」これを読んだ刹那筆者意外な感動覚えた案に相違して何だ敬虔な求道者の様である。 耶律楚材祖父時代から金朝に事えて居た元来耶律家は遼の王族であったが、遼の滅亡後金に仕えたのである幼少の頃から儒学修め天稟偉才早く衆人歎賞の的であった20のとき官吏試験にも登第した。もはや章宗終わりその頃貴族官吏の生活は極めて頽廃的のものであったが、独り流俗から離れて絶えず深い思念潜めて中国哲学研究し偏に自家の心田を開拓する工夫余念無かった自ずから中国哲学より入って宗教の門に近づいた。一人甘露法水与えてくれる人があった。広寧門外聖安寺居った澄禅師である。「果たし今度こそは本分一大事逢着せられたと見える。今より去って萬松の門を叩かれよ。」三年修行。彼が湛然号する所以萬松法泉より出た湛然称するとき、人は自ら心の奥ルーエ(Ruhe)を思うであろう時空超えたあの山中の湖のような蒼く秘めやかに拡ごる魂の静けさを思うであろうそれこそ彼の愛し求むる魂の故郷である。萬松老人の筆にある。「湛然大いにその心を会して精究神に入り盡く先入観念を棄てて了って、寒暑を冐し、昼夜と無く勇猛に精進すること三年盡くその道得た。」 1211年、元の太祖チンギスカーンは金征伐起った1215年中都燕京占領材を招見。遂に彼は太祖随う中原を去らねばならなくなった遥かに胡沙に向かう。荒涼たる広野を横ぎって陰山越える。1227年太祖西夏征服したのち、金を滅ぼすべく中原に向かう途中病没太祖の4人の子の中で三男オゴタイ後継とすることは生前太祖材で協議済みであったオゴタイ太宗となる。材これに仕える。1241年秋、太宗材の諌止聴かず病を押して狩に赴いたのが原因で、56歳行宮に崩じた。太宗崩じて3年55歳にて死去。単に大政治家とするならば、彼は寂しく頭を振るだろう。まことに敬虔な道者であった

※この「第10編の内容」の解説は、「支那思想及人物講話」の解説の一部です。
「第10編の内容」を含む「支那思想及人物講話」の記事については、「支那思想及人物講話」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「第10編の内容」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「第10編の内容」の関連用語

第10編の内容のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



第10編の内容のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの支那思想及人物講話 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS