第10編の内容
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「支那思想及人物講話」の記事における「第10編の内容」の解説
一高の旧寮に居た頃。ある秋の夜ドイツ語の勉強にも飽いて、古書でも漁って見ようと校庭を横切って図書館に来た。漢籍のカードをぱたりと繰ると、真っ先に湛然居士集というのが出た。湛然居士とは誰ぞや。知らぬ号なり。書名の下の著者の名を火影に透して覗くと、イタリックで元、耶律楚材と書いてあった。さてはあの蒙古の大宰相のことかと知ると、忽ち筆者は言うに言えぬ一種心の慄きを覚えて、早速閲覧紙に書名や函号を認めて、やがて係員が持って来た四冊の古めかしい茶色の書物を引奪くるように受け取って閲覧室の隅に逃れた。一番上に在った巻を開いて見た。蒲華城にて萬松老人を夢むという詩題が眼に映った。「かつて活句に参してほとんど青眼、未だ生きて侯たるを得ずすでに白頭。」これを読んだ刹那、筆者は意外な感動を覚えた。案に相違して何だか敬虔な求道者の様である。 耶律楚材は祖父の時代から金朝に事えて居た。元来耶律家は遼の王族であったが、遼の滅亡後金に仕えたものである。幼少の頃から儒学を修め、天稟の偉才は早く衆人歎賞の的であった。20のとき官吏の試験にも登第した。もはや章宗の終わり。その頃の貴族官吏の生活は極めて頽廃的のものであったが、独り流俗から離れて、絶えず深い思念を潜めて中国哲学を研究し、偏に自家の心田を開拓する工夫に余念も無かった。自ずから中国哲学より入って宗教の門に近づいた。一人甘露の法水を与えてくれる人があった。広寧門外の聖安寺に居った澄禅師である。「果たして今度こそは本分の一大事に逢着せられたと見える。今より去って萬松の門を叩かれよ。」三年の修行。彼が湛然と号する所以は萬松の法泉より出た。湛然と称するとき、人は自ら心の奥のルーエ(Ruhe)を思うであろう。時空を超えたあの山中の湖のような蒼く秘めやかに拡ごる魂の静けさを思うであろう。それこそ彼の愛し求むる魂の故郷である。萬松老人の筆にある。「湛然は大いにその心を会して精究神に入り、盡く先入観念を棄てて了って、寒暑を冐し、昼夜と無く、勇猛に精進すること三年、盡くその道を得た。」 1211年、元の太祖チンギスカーンは金征伐に起った。1215年中都燕京を占領。楚材を招見。遂に彼は太祖に随うて中原を去らねばならなくなった。遥かに胡沙に向かう。荒涼たる広野を横ぎって陰山を越える。1227年太祖は西夏を征服したのち、金を滅ぼすべく中原に向かう途中病没。太祖の4人の子の中で三男のオゴタイを後継とすることは生前太祖楚材で協議済みであった。オゴタイ太宗となる。楚材これに仕える。1241年秋、太宗は楚材の諌止を聴かず病を押して狩に赴いたのが原因で、56歳で行宮に崩じた。太宗崩じて3年、楚材55歳にて死去。単に大政治家とするならば、彼は寂しく頭を振るだろう。まことに敬虔なる道者であった。
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