第三阿房列車
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長崎の鴉—長崎阿房列車 1953年10月18日 - 23日、長崎への旅行記。長崎行き急行「雲仙」の食堂車内で珍問答が繰り広げられる。長崎到着後、百閒と平山はさらに四たび八代まで足を伸ばす。 房総鼻眼鏡—房総阿房列車 1953年12月20日 - 24日、千葉県内の周遊記。鼻眼鏡とは千葉 - 成東 - 銚子 - 成田 - 千葉 - 木更津 - 安房鴨川 - 大原 - 千葉の経路を比喩して百閒がつけた名称。当時の房総地域には一等車どころか二等車もほとんどなく、優等車好みの百閒には珍しく三等車ばかりの旅となる。最後は稲毛の旅館で一泊するつもりだったが、旅館のサービスのあまりの劣悪ぶりに閉口。その夜のうちに逃げ出すようにして東京へ戻った。 隧道の白百合—四国阿房列車 1954年(昭和29年)4月11日 - 17日、高知・徳島への旅行記。朝寝坊癖で東京発12時以降の列車を常用する百閒には珍しく、「つばめ」(東京・大阪共に朝9時発)が登場する。旅程中高熱を発し、平山に看病されながら足早に上り「つばめ」で帰京する苦しい旅となった。 菅田庵の狐—松江阿房列車 1954年(昭和29年)11月3日 - 9日、松江への旅行記。茶人・松平不昧公ゆかりの茶室菅田菴のとば口まで訪れながら、わざわざ抹茶を点てて貰うのが面倒さに「入らず帰ってしまった」のは百閒の有名なエピソードの一つ。そのくせ、旅館で点ててくれた抹茶は喜んで服していた。 時雨の清見潟—興津阿房列車 1954年(昭和29年)11月26日 - 27日、興津への短い旅行記。区間阿房列車以来の再訪。帰路、突風によるダイヤの乱れで興津駅通過の筈の東京行き急行「きりしま」が興津に停車、百閒たちはこれに乗り込んでしまうことに成功する。 列車寝台の猿—不知火阿房列車 五たびの八代への旅行記。1955年(昭和30年)4月9日 - 17日の旅でシリーズ最終作となる。この年7月に国鉄は利用率の低い一等寝台車を全て二等寝台車に格下げする措置を行うが、それに先立つ一等寝台車のサービス低下ぶりを目の当たりにして、一等寝台愛用者の百閒は憤慨する。 その後も百閒は、1958年(昭和33年)までに平山三郎らの同行で幾度か九州を再訪し、『千丁の柳』などの鉄道旅行を描いた随筆を残しているが、これらは『阿房列車』シリーズには含まれていない。また、北海道訪問は希望はあったものの、当時津軽海峡に度々出現していた浮遊機雷が怖い、として行く事はなかった。近年再刊された『阿房列車』単行本に掲載された百閒の旅中スナップ写真は、実際には1957年(昭和32年)に行われた九州旅行において、現地で同行した写真家の小石清によって撮影されたものである。 それ以後、老境に掛かって身体の衰えた百閒は、亡くなるまで列車で長旅をすることはなかった。
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