第三阿房列車とは? わかりやすく解説

第三阿房列車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 08:24 UTC 版)

阿房列車」の記事における「第三阿房列車」の解説

長崎長崎阿房列車 1953年10月18日 - 23日長崎への旅行記長崎行き急行雲仙」の食堂車内で珍問答が繰り広げられる長崎到着後、百閒平山はさらに四たび八代まで足を伸ばす房総鼻眼鏡房総阿房列車 1953年12月20日 - 24日千葉県内の周遊記。鼻眼鏡とは千葉 - 成東 - 銚子 - 成田 - 千葉 - 木更津 - 安房鴨川 - 大原 - 千葉の経路比喩して百閒がつけた名称。当時房総地域には一等車どころか二等車もほとんどなく、優等車好み百閒には珍しく三等車ばかりの旅となる。最後稲毛旅館一泊するつもりだったが、旅館サービスのあまりの劣悪ぶりに閉口その夜のうちに逃げ出すようにして東京へ戻った隧道白百合四国阿房列車 1954年昭和29年4月11日 - 17日高知徳島への旅行記朝寝坊癖で東京発12時以降列車常用する百閒には珍しく「つばめ」東京・大阪共に朝9時発)が登場する旅程中高熱を発し平山看病されながら足早に上り「つばめ」帰京する苦しい旅となった菅田庵松江阿房列車 1954年昭和29年11月3日 - 9日松江への旅行記茶人松平不昧公ゆかりの茶室菅田菴とば口まで訪れながら、わざわざ抹茶点てて貰うのが面倒さに「入らず帰ってしまった」のは百閒有名なエピソード一つそのくせ旅館点ててくれた抹茶喜んで服していた。 時雨清見潟興津阿房列車 1954年昭和29年11月26日 - 27日興津への短い旅行記区間阿房列車以来再訪帰路突風によるダイヤの乱れ興津駅通過の筈の東京行き急行きりしま」が興津停車百閒たちはこれに乗り込んでしまうことに成功する列車寝台不知火阿房列車 五たびの八代への旅行記1955年昭和30年4月9日 - 17日の旅でシリーズ最終作となる。この年7月国鉄利用率の低い一等寝台車全て二等寝台車格下げする措置を行うが、それに先立つ一等寝台車サービス低下ぶりを目の当たりにして、一等寝台愛用者百閒憤慨するその後百閒は、1958年昭和33年)までに平山三郎らの同行幾度か九州再訪し、『千丁』などの鉄道旅行描いた随筆残しているが、これらは『阿房列車シリーズには含まれていないまた、北海道訪問希望はあったものの、当時津軽海峡に度々出現していた浮遊機雷が怖い、として行く事はなかった。近年再刊された『阿房列車単行本掲載され百閒旅中スナップ写真は、実際に1957年昭和32年)に行われた九州旅行において、現地同行した写真家小石清によって撮影されたものである。 それ以後老境掛かって身体の衰えた百閒は、亡くなるまで列車長旅をすることはなかった。

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「第三阿房列車」を含む「阿房列車」の記事については、「阿房列車」の概要を参照ください。

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