種牡馬入りの売買交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 08:16 UTC 版)
「ステイゴールド」の記事における「種牡馬入りの売買交渉」の解説
ドバイシーマクラシックでの勝利後、社台グループと日高軽種馬農業協同組合の間でステイゴールドの種牡馬入りに関する売買交渉が行われた。両者の間で売買交渉が行われるまでに種牡馬入りしたサンデーサイレンス産駒は33頭であり、この年の皐月賞を優勝したアグネスタキオンが社台SSで種牡馬入りすることが決定的となっていたこと、この時点で父・サンデーサイレンスが現役の種牡馬(同年の種付け頭数は223頭)だったため、社台グループの生産馬であり、社台レースホースの所有馬でありながら当時の時点で種牡馬入りしていた社台SS繁用のサンデーサイレンス産駒の種牡馬と比べて実績面の見劣りを否めないステイゴールドが外部へ売却されることは当然の経営判断と見られ、その売却先の候補として日高軽種馬農協が浮上した。両者の間でステイゴールドの売買交渉が行われたとき、社台グループ側は売却価格として3億円を提示した。GIでの2着が4回、そして当時の格付けはGIIながら実質的にはGI級のレースを制したステイゴールドの競走成績は宝塚記念をはじめとして国内の重賞を6勝したマーベラスサンデーと比べても引けを取っておらず、それほどのサンデーサイレンス産駒を組合所有の種牡馬という形で導入できることは、当時バブル崩壊以降の景気の落ち込みとともに厳しい状況に陥りつつあった日高の生産者にとって非常に魅力的な話であった。 しかし、その一方でいくつかの不安材料を指摘する声もあり、その中でもステイゴールドの小柄な馬体がネックとされた。当時の日本の生産界では小柄な体格の種牡馬は敬遠される風潮が強く、小さな種牡馬を種付けしてできる産駒はどうしても小さく生まれがちであり、すると“売れにくい”ということになってしまうため、ステイゴールドの小さな馬体は決して軽視できないマイナスファクターとなった。また、交渉が行われた時点でステイゴールドは7歳、種牡馬として供用を開始する翌2002年には8歳になる年齢を不安視する声もあった。さらには、既に水準級以上の実績を残し始めていたサンデーサイレンス産駒の種牡馬の中でも双璧的な存在として見られていたフジキセキ、ダンスインザダークの二頭は交渉が行われた時点でGI馬を輩出しておらず、サンデーサイレンス自身が健在で、優秀な繁殖牝馬はこぞってサンデーサイレンスに配合されていたためもあり、後継争いの大本命と目されるような馬はまだ出現していなかった当時、血の飽和を懸念する人物、近い将来サンデーサイレンス系のサイヤーラインは“縮小再生産”に向かい、本当の意味で次代を担う種牡馬は別の系統から出現するだろうと考える人物が多かった。このようなマイナス要因が重なったため、組合員たちの間で「3億では高い」という判断が多くを占め、最終的に「この価格(3億円)での導入は見送るべき」という結論に傾いたため、この時点で行われた両者の交渉は決裂した。 その後、日高軽種馬農協の返答を受けた社台グループは、売却価格を下げて再度交渉することはせずにオファーを取り下げたものの、代わりに自分たちも含めたいくつかの組織を中心とするステイゴールドのシンジケートを結成することを決めた。結果的に交渉が決裂したことによって社台グループは小さくはない所有権を手元に残すことが可能となり、社台ファーム代表の吉田照哉は当時のことについて「あのとき、危うく売ってしまうところだったんだ」と振り返っている。その後、ステイゴールドのドバイシーマクラシック優勝後の2001年4月下旬に社台グループ、サラブレッド・ブリーダーズ・クラブ、大口の会員として岡田繁幸率いるビッグレッドファームの3つの組織が中心となり、ステイゴールドのシンジケートが結成された。総額は4億5千万円、60株で結成されたシンジケートの会員のうち、大口の株主となったのは社台グループ(15株)と事務局を担当するサラブレッド・ブリーダーズ・クラブ(17株)、ビッグレッドファーム(15株)だった。ただ、この時点で既に同年の種付けシーズンは始まっていたため、ステイゴールドは同年一杯まで現役を続行することとなった。
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