秋田追分の誕生とレコード・デビュー
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「鳥井森鈴」の記事における「秋田追分の誕生とレコード・デビュー」の解説
このころ森鈴は、江差追分ブームの今の時期に“秋田の追分”にも磨きをかけたいと考え、それまでの在郷追分に江差追分の上品な節回しを取り入れ、現在まで歌い継がれているあかぬけした秋田追分を完成させた。 1924(大正13)年、森鈴は五城座で「森鈴会」を結成し、後進への民謡の指導と普及にあたった。この会の活動はその後秋田県内各地に広がっていった。 1925(大正14)年が、27歳の森鈴にとって大きな転機となる。この年、塩山浩蔵らを中心に大日本民謡研究会の秋田支部が結成され、9月24日に秋田劇場で民謡大会が開催された。森鈴は地元飛び入り競演会に加わり、太平の永井錦水に次ぐ第2位となる。これにより、大日本民謡研究会本部会長の後藤桃水が森鈴の天賦の才を認めることになる。同年11月3日には仙台歌舞伎座の東北民謡大会に出場した。 1926(大正15)年に、「秋田追分」が発売される。この年の3月、当時の日本民謡協会長であった後藤桃水が五城目町を訪れ、森鈴にレコードの吹き込みを勧めた。森鈴はこれを請け、森鈴にとって初めてのレコード吹込みとして、日本蓄音機商会(日蓄、のちの日本コロムビア)の鷲印レーベルから「秋田追分」を発表した。当初は「江差追分」を吹込む予定で、練習していたのだが、桃水のすすめで曲目が変更された。さらに2年後の1928年に別のレコード会社から売り出した秋田追分がヒットし、森鈴は一躍全国的な人気民謡歌手になった。森鈴が吹き込んだレコードは秋田追分の他に、江差追分、酒屋節、秋田おばこ節、秋田秀子節、、秋田おはら節、船方節などがある。 昭和に入ると自ら一座を組織し、千島から名古屋までを巡業した。秋田では、手品の松旭斎天外、曽我廼家劇の五郎(一堺漁人の名で自作の「六兵衛物語」を上演)、夏川静江などが来演し、映画上映なども行われた「康楽館」で民謡座長大会を開催している。 1930年(昭和5年)には、伝統芸能の「秋田万歳」をアレンジした漫芸を発表し、芸の幅を広げて観衆を喜ばせた。 1932(昭和7)年にNHK秋田放送局が開設すると、男鹿の森八千代、仙北民謡の名手黒沢三一らとともに、森鈴の歌声はラジオの電波にのり、県内すみずみまで伝わり、幅広い人気を得た。 1939(昭和14)、戦時色が濃くなると、民謡をあきらめ、馬川村役場へ勧業係として勤めたが、時折、東北北海道の工場や鉱山を慰問した。
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