秋田郡・河辺郡での砂防事業
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「栗田定之丞」の記事における「秋田郡・河辺郡での砂防事業」の解説
山本郡内の植林に成功した定之丞は郡方見廻役になり、御物書と砂留兼帯として河辺郡に転勤となった。そこでも同じ方法で文化年間に約300万本の植林に成功した。 新屋の砂防事業は1807年(文化4年)から始まった。定之丞は「もともとは山林もあり『いろは釜』と称したほどの多くの塩釜があったが、乱伐で薪もなくなり一、二の釜を残すばかりになっていた。西山が砂山と化してから百年にもなっていた。冬の強風で住宅や田畑が半分も埋まってしまっているという毎春であった。『新屋千軒』といわれていたこの地方も450~460軒に減り、このままでは西山通りも勝平山のような毛無し山になってしまうであろう」と植林に取り組む前の状況を記している。定之丞は山本郡で成功した方法を取り入れ松を主役にして植林を進めた。ここでも住民による反発はあったが、強硬に方針を推進した。「駄々之丞」と噂されても意に介さなかったほど、自己主張も強かったようである。 1820年(文政3年)の新屋村肝煎武兵衛以下の連名の書き上げには、関町の堰は砂防工事が三、四年で完成し、水田三百石の水源も安心できるようになったこと、以前の埋没耕地も次第に起き返りつつあること、ぐみも根付き三、四年で苗木も多く取れるようになり、南北一里、東西四里半もあった飛砂被害地ももう心配なくなったこと、ぐみの実は八月から十月までの村の女房子供の収穫物になり、期間中で三百貫文ほどの収入になっていることなどを記している。定之丞は新屋と並行して、中野や飯島でも植林を進めたが、ここでも村人の抵抗があった。時には食事にからまる陰にこもった意地悪もあったという。 1816年(文化13年)には約十年に及ぶ功がなったことが上申書に見える。砂防林の完成は、数十石に及ぶ耕地開発上の効果があった。 のちに、定之丞は六郡の御普役や下三郡諸木取立役等を務め50歳のとき郡方吟味役となり、植林の第一線からしりぞいた。 1827年(文政10年)に35石の加増を受けた。その三ヶ月後の10月28日に「100年後ともなればこの植林地は伐採期になり、金目当てに乱伐されるだろうが、そうなればもとの砂丘になる。そんなことをせぬように孫たちに伝えてくれ」と言い残して61歳の生涯を閉じた。
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