秋田郡・河辺郡での砂防事業とは? わかりやすく解説

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秋田郡・河辺郡での砂防事業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 09:04 UTC 版)

栗田定之丞」の記事における「秋田郡・河辺郡での砂防事業」の解説

山本郡内の植林成功した定之丞は郡方見廻役になり、御物書と砂留兼帯として河辺郡転勤となった。そこでも同じ方法文化年間に約300本の植林成功した新屋砂防事業1807年文化4年)から始まった。定之丞は「もともとは山林もあり『いろは釜』と称したほどの多く塩釜があったが、乱伐なくなり一、二の釜を残すばかりになっていた。西山砂山化してから百年にもなっていた。冬の強風住宅田畑半分埋まってしまっているという毎春であった。『新屋千軒』といわれていたこの地方450460軒に減りこのままでは西山通り勝平のような無しになってしまうであろう」と植林取り組む前の状況記している。定之丞は山本郡成功した方法取り入れ主役にして植林進めた。ここでも住民による反発はあったが、強硬に方針推進した。「駄々之丞」と噂されても意に介さなかったほど、自己主張強かったようである。 1820年文政3年)の新屋村肝煎兵衛以下の連名書き上げには、関町の堰は砂防工事三、四年で完成し水田三百石の水源安心できるようになったこと、以前埋没耕地次第起き返りつつあること、ぐみも根付き三、四年で苗木多く取れるようになり、南北一里東西四里半もあった飛砂被害地ももう心配なくなったこと、ぐみの実は八月から十月までの女房子供収穫物になり、期間中三百貫文ほどの収入になっていることなどを記している。定之丞は新屋並行して中野飯島でも植林進めたが、ここでも村人抵抗があった。時には食事からまる陰にこもった意地悪もあったという。 1816年(文化13年)には約十年に及ぶ功がなったことが上申書見える。砂防林完成は、数十石に及ぶ耕地開発上の効果があった。 のちに、定之丞は六郡の御普役や下三郡諸木取立役等を務め50歳のとき郡方吟味役となり、植林第一線からしりぞいた。 1827年文政10年)に35石の加増受けたその三ヶ月後の10月28日に「100年後ともなればこの植林地伐採期になり、金目当て乱伐されるだろうが、そうなればもとの砂丘になる。そんなことをせぬように孫たち伝えてくれ」と言い残して61歳生涯閉じた

※この「秋田郡・河辺郡での砂防事業」の解説は、「栗田定之丞」の解説の一部です。
「秋田郡・河辺郡での砂防事業」を含む「栗田定之丞」の記事については、「栗田定之丞」の概要を参照ください。

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