秋田転封後の支配体制確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 22:46 UTC 版)
「佐竹義宣 (右京大夫)」の記事における「秋田転封後の支配体制確立」の解説
義宣は、慶長7年(1602年)9月17日、秋田の土崎湊城に入城した。義宣は、角館城、横手城及び大館城等を拠点として内政を行い、仙北地方で起こった一揆を平定して領内の安定を図った。後に土崎湊城は廃されることとなり、慶長8年(1603年)5月から築城が始まった久保田城を本城とすることになった。父・義重は横手城を本城にすべきと主張したが、義宣は久保田城を本城にすべきと主張し、そのように決定したのである。 また、義宣は家柄や旧例にとらわれず、渋江政光、梅津憲忠、梅津政景及び須田盛秀といった旧家臣及び関東・奥州の旧大名の遺臣達を能力本位で登用し、積極的に開墾を進めて家中の建て直しに尽くした。これにより、江戸中期の久保田藩の実高は45万石にも上った。しかし、浪人あがりで若手の渋江政光を重用することが譜代の老臣の反感を買い、家老の川井忠遠らによる義宣、政光の暗殺謀議も起こっている。これは逆に義宣が暗殺を企てた家臣らを粛清して決着した(川井事件)。 義宣は秋田への減転封を機に、一門及び譜代の家臣の知行を減少させ、その勢力を減殺し、当主の権力を強化して新たな政策の実施と人材登用を可能にした。
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