研究業績と評価
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琉球貿易史研究の草分けの一人である。高良倉吉は、1979年(昭和54年)の時点で、秋山の『日支交渉史研究』(1939年)を「今でも古琉球期の対外交易史に関する研究の到達水準を示す作品」と高く評価している。秋山によれば、琉球貿易史研究を志したきっかけは、1924年(大正13年)春に沖縄を訪れ、「豪壮なる首里城が荒廃の極に達してゐるのを見、旧くは此の地方を中心とする華かな対外交渉の時代があつたことを推察し、それが何故この状態に立ち到つたかについて深刻なる反省を促されたからである」という。 1928年(昭和3年)、『史学雑誌』第39編第3号に論文「Goresは琉球人である」を発表。16世紀のポルトガル語史料に見える「ゴーレス」と呼ばれる人々について、それまで日本人研究者の間では通説だった日本人説をしりぞけ、琉球人説を主張し、前嶋信次・岡本良知・藤田元春らとの間に「ゴーレス論争」を巻き起こした。また、『隋書』に見える「流求国」について、沖縄説の立場から、台湾説を主張する和田清に論争を挑んでいる。さらに、日宋貿易をめぐり森克己に論争を挑んだ。 森克己によれば、1936年(昭和11年)10月に秋山と森が和田英松宅で論争を戦わせ、その晩に仲直りの盃を挙げた際、秋山は森に「森君今世の中はどんどん変わりつつある。いつまでも君のようなことをいっていたら、時勢に遅れてしまうよ。僕は時勢に遅れないように、この辺で方針を変えてゆくつもりだ」と語ったという。森は、「私との論争が秋山氏の学究活動の最後で、あれから秋山氏は急速にジャーナリズムの波に乗り、行きついた先はパージであった」と述懐している。 戦時中は売れっ子となり、全国各地を講演して回った。清沢洌は『暗黒日記』の中で、「大東亜戦争に導いた民間学者の中で最たるものが二人ある。徳富蘇峰と秋山謙蔵だ。この二人が在野戦争責任者だ。」と評している。『暗黒日記』には、秋山がたびたび新聞やラジオなどで元寇と神風の話をしていたことが見える。 著書は多いが、大部分が概説・評論・随筆のたぐいであり、学術的著作といえるのは『日支交渉史話』(1935年)・『日支交渉史研究』(1939年)・『東亜交渉史論』(1944年)の3冊程度に限られている。
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