石勒との闘い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 07:42 UTC 版)
308年2月、当時并州にて匈奴攣鞮部の劉淵が建国していた、漢(後の前趙)の輔漢将軍の石勒の軍が常山へと襲来したが、王浚は段部の段文鴦を派遣してこれを返り討ちにし、南陽へ敗走させた。309年9月、石勒が再び常山に襲来し、中山・博陵・高陽の各県へ諸将を派遣して数万人を降伏させた。王浚は主簿の祁弘と段部の大人段務勿塵らに10万を超える騎兵を指揮させ、石勒の討伐に乗り出した。祁弘は石勒と飛龍山(現在の河北省石家荘市元氏県の北西)で一戦を交え、1万以上の兵を討ち取る大勝を挙げ、石勒を黎陽まで退却させた。11月、石勒は信都へと軍を転進させ、冀州刺史の王斌を討ち取った。これに乗じ、王浚は冀州刺史の地位も代行するようになった。 10月、西晋の并州刺史の劉琨は同盟を結んでいた拓跋部の大人拓跋猗盧を、大単于・代公に封じるよう朝廷へ上表した。だが、代郡は幽州に属していたので、王浚は代郡を開け渡す事を拒絶し、兵を繰りだして拓跋猗盧を攻撃したが、返り討ちに遭った。これ以来、王浚と劉琨は敵対するようになった。311年5月には詔により大司馬に任じられ、侍中・大都督・冀幽二州諸軍事を加えられたが、その使者が派遣される前に前趙の攻勢により洛陽は陥落した。 7月、王浚は祭壇を築いて皇太子(名は記されておらず、誰なのかは不明)を独断で擁立した。また、朝廷より詔を受けて承制(皇帝に代わって諸侯や守相を任命する事)の権限を与えられたと主張し、百官を任命して琅邪王司馬睿(後の東晋の元帝)に対しても大将軍の官位を授与した。また棗拠の子の棗嵩を監司冀并兗四州諸軍事・行安北将軍に、乞活の田徽を兗州刺史に、同じく乞活の李惲を青州刺史に任じた。これ以降は自らの独断で、前趙征伐を実施するようになった。当時、劉琨の統治する并州は前趙の猛攻に晒されており、その難を避けて王浚の下に帰順する民衆も多かった。こうした事態に際して、王浚と劉琨の間で現地住民の奪い合いを巡る武力衝突が生じ、これにより両者の溝は益々深まった。同月、王浚は妻の兄弟の崔毖を東夷校尉に任じて遼東に赴任させ、その影響力を東にも広げようとした。 312年7月、石勒が襄国へ進出してこれを本拠地とし、幽州攻略を窺うようになった。これに対し王浚は12月、石勒が配下の将兵を苑郷の攻略に派遣した隙を突いて、督護の王昌・中山郡太守の阮豹らを派遣して襄国の攻略を命じた。さらに段部の段疾陸眷・段末波・段匹磾・段文鴦らもまた、5万余りの兵を率いて王昌と共に襄国へ進撃した。しかし石勒の伏兵策により段部の段末波が生け捕られると、段部の軍は前趙と講和を結んで撤退したためこの作戦は失敗し、以降段部は王浚とは距離を置くようになった。同月、苑郷を守っていた游綸・張豺もまた王浚の敗北を知り、石勒に帰順した。さらに同年とその北年の内には、主簿の祁弘や冀州刺史の王象・青州刺史の李惲らも石勒の軍に討ち取られた。 313年4月、王浚は再び石勒の討伐を計画したが、この際に王浚が召集した段疾陸眷はかねてより王浚と距離を取っており、次第に王浚に誅殺されることを懸念するようになっていた。また石勒からも手厚い賄賂を受け取った事から、この召集を拒否したため、討伐作戦は実施されなかった。王浚は激怒し、拓跋部の大人拓跋猗盧・慕容部の大人慕容廆らと共同して段部を攻撃したが、拓跋部の軍は返り討ちに遭い、慕容部の軍もまた撤退した。5月、石勒配下の孔萇が定陵へ侵攻し、王浚が任じた兗州刺史である田徽は敗れて戦死した。これにより、王浚が任じた青州刺史である薄盛は勃海郡太守の劉既を捕らえると、5千戸を引き連れて石勒に帰順した。これにより、山東の郡県は相次いで石勒の手に落ちた。烏桓の審広・漸裳・郝襲もまた王浚に見切りを付け、密かに石勒に使者を派遣して帰順した。これにより王浚の影響力は大きく減衰した。
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