石勒との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 03:18 UTC 版)
王弥と石勒は表面上は親しく振舞っていたものの、かねてより内心互いに疎ましく思っていた。石勒は王弥の驍勇を警戒して常に密かにこれに備えており、王弥は石勒を懐柔するため、洛陽から略奪した美女や宝貨を多く贈った。 劉暾は青州に割拠する曹嶷(王弥の元配下)を呼び寄せて共に石勒を挟撃するよう進言すると、王弥はこれに同意して書をしたためた。こうして劉暾を曹嶷の下へ使者として派遣し、曹嶷を呼び寄せると共に、一方で石勒に対しては共に青州へ向かおうと申し出て油断させようとした。だが、劉暾は東阿に至った所で石勒の游騎部隊に捕らえられてしまい、その懐から王弥が曹嶷に宛てた書状が発見された。その内容を見た石勒は劉暾を殺害し、自分を仇なそうとした王弥もまた除こうと心に決めた。石勒は劉暾の処刑を秘匿したので、王弥は劉暾が殺された事を最期まで知ることはなかった。 6月頃、石勒は蒙城を急襲し、長年に渡り漢の侵攻を阻んでいた兗州刺史苟晞を捕らえたが、処断せずに左司馬として取り立てた。これを聞いた王弥は石勒の功績を妬んだが、敢えてそれを秘匿して石勒へ書を送り「貴公は苟晞を捕えながらこれを殺さずに用いるとは、まさしく神威の表れですな。苟晞を公の左に据え、この王弥を公の右に据えれば、天下もすぐに治まることでしょう」と述べ、石勒の出方を窺った。石勒は参謀の張賓と共に王弥誅殺の計画を進めたが、王弥もまた石勒を警戒していたために、実行に移せなかった。
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