石刻遺訓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 16:18 UTC 版)
石刻遺訓は、趙匡胤が石(鉄という説もあり)に刻んで子孫に伝えた遺言で、宋朝の皇帝が即位する際、必ずこれを拝み見ることが慣わしとなっていた。ただし、その存在は秘中の秘とされ、ごく一部の宮中の人間にのみ伝えられた以外は、宰相ですら知らなかったという。金軍の侵入で王宮が占領された際に発見され、初めてその存在が明るみに出た。 そこに刻まれていた遺訓の内容は以下の2条である(『宋稗類鈔』巻一「君範」、陶宗儀『説郛』によれば、正確には3つあり、第3条は上の2条を子孫代々守れという内容であった)。 趙匡胤に皇位を譲った柴氏一族を子々孫々にわたって面倒を見ること。 言論を理由に士大夫(官僚/知識人)を殺してはならない。 この2つの遺訓が歴代の宋王朝の皇帝たちによって守られたことは、南宋が滅亡した崖山の戦いで柴氏の子孫が戦死していること、政争で失脚した官僚が処刑されず、政局の変化によって左遷先から中央へ復帰していること(例:新法旧法の争いでの司馬光や対金講和派の秦檜など)が証明している。趙匡胤の優れた人間性が後の宋王朝の政治に反映されたことを、この石刻遺訓は物語っている(陳 1992)。
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