石勒崩御
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 07:22 UTC 版)
333年5月、石勒は病に倒れると、石虎・石弘・厳震を呼び出して禁中に控えさせた。だが、石虎は石勒の命と偽って石弘・厳震を始め内外の群臣や親戚を退けたので、誰も石勒の病状を把握出来なくなった。さらに、石虎は再び命を偽り、石宏・石堪を密かに襄国に召還した。石勒の病状が少し回復すると、石宏がいるのを見て驚き「秦王(石宏)は何故にここに来るか?王に藩鎮を任せたのは、正に今日のような日に備えるためではないか。誰かに呼ばれたのか?それとも自ら来たのか?誰かが呼んだのであれば、その者を誅殺してくれよう!」と声を挙げた。この言葉に石虎は大いに恐れ「秦王は思慕の余り、自らやってきたのです、今、送り返すところです。」と述べた。数日後、石勒が再び石宏について問うと、石虎は「詔を奉じてから既に発っており、今は既に道半ばと言った所かと思われます」と答えたが、実際には石宏を外に駐軍させ、帰らせなかった。 同時期、広阿で蝗害が発生すると、石虎は密かに子の石邃に騎兵3千を与え、蝗の発生箇所を巡回させた。 石勒はその病状がいよいよ悪くなると、群臣へ「大雅(石弘の字)はまだ幼いので、恐らく朕の志を継ぐにはまだ早いであろう。中山(中山王の石虎)以下、各々の群臣は、朕の命に違う事の無きよう努めよ。大雅は石斌と共に協力し、司馬氏の内訌を汝らの戒めとし、穏やかに慎み深く振舞うのだ。中山王は深く周霍(周公旦と霍光)を三思せよ。これに乗じる事の無い様に」と遺命を告げた。7月、石勒は崩御した。
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