石勒軍の勇将
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石虎は18歳になると、次第に節を曲げて他人に従うようになった。身長は7尺5寸となり、身のこなしは俊敏で、弓馬の術に長け、その勇力は当代一であった。その為、重臣や親族であっても敬意と畏怖の念を抱かぬ者はおらず、石勒はこれを深く称賛して征虜将軍に任じた。 313年4月、石虎は鄴城の三台(氷井台・銅雀台・金虎台)へ侵攻すると、これらを陥落させた。守将の劉演は廩丘へと敗走し、将軍謝胥・田青・郎牧は三台の流民を引き連れて降伏した。石勒は桃豹を魏郡太守に任じたが、しばらくして石虎にその任を交代させ、鄴城と三台の統治を委ねた。晋書では、石虎に鄴を任せた事が帝位篡奪のきっかけとなったと記されている。 後に繁陽侯に封じられた。 316年4月、乞活の王平が守る梁城を攻撃したが、攻め落とせずに撤退した。その後、軍を転進させると、劉演の守る廩丘を攻撃した。厭次に割拠する邵続は段文鴦(段疾陸眷の弟。邵続とは同盟関係にあった)に劉演救援を命じたが、石虎が盧関津を固めていたので、段文鴦は進軍が出来ずに景亭に軍を留めた。豫州の豪族張平らもまた挙兵すると劉演救援に向かったが、石虎は夜の内に陣営を放棄して外に伏兵を配すると共に、河北に帰還すると吹聴して回った。張平らはこれを信じ込み、空になった石虎の陣営に侵入した。これを確認した石虎は急襲を掛け、張平軍を撃ち破った。さらに勢いのままに廩丘へ侵攻すると、これを陥落させた。劉演は段文鴦の軍に逃亡したが、石虎は劉演の弟劉啓を捕らえ、襄国へと送還した。 317年6月、東晋の豫州刺史祖逖が譙城に入ると、石虎は軍を率いて譙を包囲したが、行参軍桓宣の援軍が到来すると軍を撤退させた。その後、長寿津を渡河して梁国に攻め込むと、梁国内史荀闔を撃破してその首級を挙げた。 8月、漢の大将軍靳準は平陽で乱を起こし、漢帝劉粲を始めとした漢の皇族を尽く殺害した。この報を受けた石勒は靳準討伐の兵を挙げ、襄陵の北原に本陣を置いた。漢の丞相劉曜もまた長安を発して蒲坂まで進み、10月には皇帝位に即いた。12月、靳準配下の卜泰・喬泰・馬忠らは靳準を殺害し、子の靳明を盟主に推戴すると共に劉曜に降伏した。だが、石勒は靳明の降伏を認めずに平陽攻撃を継続し、石虎もまた幽州・冀州の兵を率いて石勒に合流すると、共同で平陽を攻めた。だが、劉曜が靳明救援の軍を差し向けると、攻撃を中止して蒲上に留まった。靳明は石勒らの侵攻を恐れ、平陽の兵を伴って劉曜の下へと逃げ込んだが、劉曜は靳明を始めとした靳氏を全て誅殺し、乱を鎮めた。 319年4月、蓬陂の塢主である陳川が石勒に帰順すると、祖逖は陳川討伐の兵を挙げ、両軍は蓬関で戦闘となった。石虎は5万の兵を率いて陳川救援に向かうと、祖逖を撃破して梁国まで撤退させた。さらに揚武将軍左伏粛を派遣して祖逖を攻撃させた。さらに将軍桃豹を蓬関へ侵攻させ、祖逖を淮南郡まで退却させた。石虎は陳川とその部衆5千戸を襄国に送還し、桃豹に陳川の故城を守らせた。 同月、河西鮮卑の日六延が反乱を起こすと、石虎はこれの討伐に当たり、朔方へ進軍して迎え撃って来た日六延を破った。この戦いで2万の首級を挙げ、3万人余りを捕らえ、獲得した牛馬は10万を数えた。
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