石勒軍の勇将とは? わかりやすく解説

石勒軍の勇将

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 07:22 UTC 版)

石虎」の記事における「石勒軍の勇将」の解説

石虎18歳になると、次第節を曲げて他人に従うようになった身長は7尺5寸となり、身のこなし俊敏で、弓馬の術に長け、その勇力当代であった。その為、重臣親族であっても敬意畏怖の念を抱かぬ者はおらず石勒はこれを深く称賛して将軍任じた313年4月石虎は鄴城の三台(氷井台・銅雀台金虎台)へ侵攻すると、これらを陥落させた。守将の劉演廩丘へと敗走し将軍謝胥・田青・郎牧は三台流民引き連れて降伏した石勒桃豹魏郡太守任じたが、しばらくして石虎にその任を交代させ、鄴城と三台統治委ねた晋書では、石虎に鄴を任せた事が帝位篡奪のきっかけとなった記されている。 後に繁陽侯に封じられた。 316年4月乞活王平が守る城を攻撃したが、攻め落とせずに撤退したその後、軍を転進させると、劉演の守る廩丘攻撃した厭次割拠する邵続段文鴦段疾陸眷の弟。邵続とは同盟関係にあった)に劉演救援命じたが、石虎が盧関津固めていたので、段文鴦進軍出来ずに景亭に軍を留めた。豫州豪族張平らもまた挙兵すると劉演救援向かったが、石虎は夜の内に陣営放棄して外に伏兵配すると共に河北帰還する吹聴して回った張平らはこれを信じ込み、空になった石虎陣営侵入した。これを確認した石虎急襲掛け張平軍を撃ち破った。さらに勢いのままに廩丘侵攻すると、これを陥落させた。劉演段文鴦の軍に逃亡したが、石虎劉演の弟劉啓捕らえ襄国へと送還した。 317年6月東晋豫州刺史祖逖譙城に入ると、石虎は軍を率いて譙を包囲したが、行参軍桓宣援軍到来すると軍を撤退させた。その後長寿津を渡河して梁国攻め込むと、梁国内史荀闔を撃破してその首級挙げた8月、漢の大将軍靳準平陽で乱を起こし、漢帝劉粲始めとした漢の皇族尽く殺害した。この報を受けた石勒靳準討伐兵を挙げ襄陵北原本陣置いた。漢の丞相劉曜もまた長安発して蒲坂まで進み10月には皇帝位に即いた。12月靳準配下の卜泰・喬泰・馬忠らは靳準殺害し、子の靳明を盟主推戴すると共に劉曜降伏した。だが、石勒は靳明の降伏認めず平陽攻撃継続し石虎もまた幽州冀州の兵を率いて石勒合流すると、共同平陽攻めた。だが、劉曜が靳明救援の軍を差し向けると、攻撃中止して上に留まった。靳明は石勒らの侵攻恐れ平陽の兵を伴って劉曜の下へと逃げ込んだが、劉曜は靳明を始めとした靳氏を全て誅殺し、乱を鎮めた319年4月陂の塢主である陳川が石勒帰順すると、祖逖は陳川討伐兵を挙げ両軍関で戦闘となった石虎5万の兵を率いて陳川救援に向かうと、祖逖撃破し梁国まで撤退させた。さらに揚武将軍左伏粛を派遣して祖逖攻撃させた。さらに将軍桃豹関へ侵攻させ、祖逖淮南郡まで退却させた。石虎は陳川とその部衆5千戸襄国送還し桃豹に陳川の故城を守らせた。 同月河西鮮卑の日六延が反乱を起こすと、石虎はこれの討伐に当たり、朔方進軍し迎え撃って来た日六延を破った。この戦いで2万首級挙げ、3万人余り捕らえ獲得した牛馬10万数えた

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