石勒の右腕へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 05:12 UTC 版)
312年2月、石勒は葛陂(汝陰郡鮦陽県にある、現在の河南省駐馬店市新蔡県)に砦を築き、建業侵攻を目論んだ。石勒の到来を知った琅邪王司馬睿(後の元帝)は諸将に命じ、江南の兵を寿春に集結させた。 当時、3ヶ月に渡って長雨が降り続いており、石勒軍では飢餓に加えて疫病が蔓延していた。これにより石勒は兵の大半を失ってしまい、もはや戦どころではなくなってしまった。檄書が朝夕に次々と陣営に届き、晋軍が刻一刻と接近している事を知ると、進退窮まった石勒は諸将を集めて対応策を検討した。軍議の中では、降伏を勧める者や、敵軍の集結前に夜襲を勧める者など、様々な意見が出た。最後に、石勒は張賓の方を向くと「貴公はどう思うか」と尋ねた。これに張賓は「将軍は(永嘉の乱において)洛陽を攻略し、天子(懐帝)の生け捕りや王侯の殺害、妃主(后妃・妃嬪や公主)の略奪に加担しました。将軍の髮を全て引き抜いたとしても罪の数に及ばない程、彼らは将軍のことを憎んでいるでしょう。降伏という選択肢はまず有り得ません。そもそも王弥を誅殺した後、ここに拠点を構えたのは誤りだったのです。天が数百里に渡って長雨を降らせているのは、将軍にここに留まるべきではないと示しているのでしょう。鄴には険固なる三台(銅雀台、金虎台、氷井台の3つの宮殿)があり、西はすぐ漢都平陽に接して四方を山河によって囲まれています。まさしく要害の地勢を有しております故、ここに拠点を移すべきです。背く者を討って降伏する者を慰撫し、その上で河北が平定されれば、将軍の右に出る者はいなくなりましょう。今、晋軍が迫ってきていますが、彼らは寿春を守る為に出兵したにすぎません。我々が軍を返したと聞けば、喜んで兵を退くことでしょう。奇兵で襲撃する暇などありますまい。念のために先に輜重を北道に沿って先発させ、将軍は大軍を率いて南下して寿春に向かう振りをするのです。輜重が十分遠くまで行ってから、大軍をゆっくりと転進させれば、進退を恐れる事などありません」と答えた。これを聞いた石勒は服の裾を払って立ち上がり、髯を震わせると「張賓の計こそ正しい」と述べ、その方針を採用した。また、張賓を右長史に昇進させ、さらに中塁将軍を加えた。これ以後、石勒は張賓を名指しで呼ぶ事は無くなり、『右侯』と呼び敬うようになった。 石勒が葛陂を出発すると、石虎に騎兵2千を与えて寿春に向かわせた。石虎は江南からの米や布を積んだ輸送船に気を取られて守備の備えをしなかった為、晋将紀瞻から攻撃を受けたが、紀瞻は敢えて深入りせずに寿春に軍を退いた。これも張賓の言の通りであった。
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