石勒に仕官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 05:12 UTC 版)
300年初頭、各地で乱が多発して天下が大いに乱れると、匈奴の劉淵は離石で挙兵して漢(後の前趙)を建国した。 308年1月、漢の輔漢将軍石勒は諸将を率いて青州へ進出した。この時、張賓は石勒の姿を見掛けると、自らの親友へ「我はこれまで多くの将を観察してきたが、胡将軍(石勒)のみが共に大事を成すに値する人物だ」と言った。そして、剣を掲げて軍門に出向くと、大声で叫んで石勒に面会を請うた。石勒はこれを迎え入れたものの、当初は大した人物では無いと考えていた。だが、張賓が幾度も策を献じてその言う通りとなると、次第に只ならぬ者と考えるようになっていった。 309年、石勒は鉅鹿・常山を攻略すると、さらに冀州の郡県で100を超える砦を陥とした。これにより10万以上の兵を帰順させると、その中から賢人を集めて政権の中枢を担う組織を作り上げ、これを『君子営』と呼称した。張賓はこの組織の謀主を任せられ、軍功曹に任じられた。 311年1月、石勒は南へ進んで襄陽へ侵攻すると、江漢(長江・漢水一帯)の地で自立しようと考えた。だが、張賓は時期尚早であるとして、北に帰る事を進言した。石勒はこれに従わなかったものの、張賓の進言を評価して参軍都尉・領記室に任じ、位を司馬の次として中軍の全般を選任させた。その後、石勒軍は兵糧輸送の失敗や疫病により兵の大半を失ったので、結局張賓の進言通り江夏から北へ戻った。
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