着想から発足まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 09:26 UTC 版)
ウィキペディアは、2000年(平成12年)に立ち上げられたオンライン百科事典プロジェクトであるヌーぺディアの分岐プロジェクトとして始まった。元となったヌーペディアは、ウィキペディアと同じくGFDLによるオープンコンテントの百科事典プロジェクトではあったが、記事の執筆は博士号を持つようなその分野の専門家に限られ、作成された記事も審査と承認を経て公開される従来の百科事典のような厳格な手順を採用していた。特に7段階に及ぶ厳格な審査・承認手順を敷いたことでプロジェクトの進行は非常に遅くなり、最初の年で完成した記事は12個のみであった。ヌーペディア創立者のジミー・ウェールズと創立メンバーの1人でありヌーペディア編集主任のラリー・サンガー は、ヌーペディアの行き詰まりを打開するために、解決策を話し合い、模索するようになる。 ウィキペディアの着想の経緯については、現在ではサンガーとウェールズとで認識が異なっている。サンガーによると、2001年1月2日にコンピュータプログラマで旧友のベン・コヴィッツ(Ben Kovitz)と、カリフォルニア州サンディエゴで行った会話に端を発すると述べている。ヌーペディアの問題をサンガーから聞かされたコヴィッツは、ウォード・カニンガムによって発明された「ウィキ」の仕組みについて説明した。それを聞いたサンガーは、ウィキがよりオープンでシンプルな編集手順を持つ百科事典を作るプロジェクトに相応しいものと考えるに至った。サンガーはウェールズにウィキをヌーペディアに利用する案を持ちかけ、ウェールズからの好感触を得たサンガーは具体的なウィキの適用に動き出した。 初期のBomis社のプレスリリースでも、ウィキ導入のアイデアはサンガーの提案とされていた。ウェールズも、2001年10月30日のウィキペディア・メーリングリストにおいて、ウィキを使用するアイデアはサンガーが持っていたと述べている。しかしその後、ウィキのアイデアはヌーペディアを運営するBomisの社員であったジェレミー・ローゼンフェルド(Jeremy Rosenfeld)から聞いたとウェールズは述べており、現在ではそれぞれの認識が異なっている。2005年には、ウェールズ自ら、英語版ウィキペディアの「Jimmy Wales」の記事にこの認識を書き込んでいる。 ウィキのウェブページをヌーペディアに利用するという案に対しては、ヌーペディアの執筆者と査読者から強硬な反対意見があったため、「Wikipedia(ウィキペディア)」と名付けた新たなプロジェクトを立ち上げ、独自のURLアドレスであるwikipedia.comにて同年1月15日から開始することになった。「Wikipedia」という名称はサンガーによって付けられたもので、サンガーは「とても馬鹿げたプロジェクトのための馬鹿げた名前」を付けたと述べている。アンドリュー・リー(英語版)によれば、wikipedia.comにおける最初の記事は英語のアルファベット「U」についての記事で、21番目のアルファベット「U」の起源や歴史が説明されたものであった。英語版ウィキペディアには、この最初の記事についての記念ページが作られている。 ネットワーク帯域と、カリフォルニア州サンディエゴに設置したサーバはウェールズが資金を提供した。また、2002年1月まで、サンガーはヌーぺディアの主幹編集員兼ウィキペディアの非公式管理人として「Bomis」に雇われていた。資金の枯渇から、2002年3月にサンガーへの給与打ち切りが決まり、サンガーはウィキペディアを含むプロジェクトでの活動を停止した。
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