町の建設
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「ダルース (ミネソタ州)」の記事における「町の建設」の解説
1850年代に入るとこの地に銅の鉱脈が存在するといううわさが広まり、この一帯への注目が集まった。1852年に政府がこの地を調査し、1854年の条約(前述)によってネイティブ・アメリカンの襲撃の危険性がなくなると、金を求める探検者たちがこの地に続々とやってくるようになった。これらの探検者たちはこの一帯での鉄鉱石採掘の礎を築き上げた。 同じ頃、スペリオル湖の東に閘門を有する運河、スーセントマリー運河が開削され、この一帯に大型の船舶がたどり着けるようになった。また、ミネアポリス・セントポールにつながる道路も開通した。セントルイス川の両岸には11の小さな町がつくられた。これらの町は、後にダルースが市として形成されていく上での基となった。 1857年、この一帯での銅の資源が枯渇すると、今度は林業が市の主産業になっていった。しかし、アメリカ合衆国全土を襲った経済危機によって、市の初期の開拓者のほぼ4分の3が町を離れていった。 1860年代後半、資本家ジェイ・クック(Jay Cooke)はレイク・スペリオル・アンド・ミシシッピ鉄道を説得し、セントポールからダルースへ同社の路線を延伸させた。鉄道が開通したことにより、スペリオル湖北西岸のこの一帯では鉄鉱石の鉱業が興った。1869年の元旦には、ダルースにはわずか14家族が暮らすのみであったが、同じ年の独立記念日には、町の人口は3,500人に膨れ上がった。
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町の建設
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ザビードの歴史は、9世紀初頭にアッバース朝のカリフ、マアムーンがティハーマ地方で起きた部族反乱を鎮圧するため、ムハンマド・イブン・ズィヤードを派遣したことにさかのぼる。鎮圧後の統治も任されたイブン・ズィヤードは現在のザビードに城塞を建設し、これが発展して都市となった。 イブン・ズィヤードは819年にアッバース朝から自立すると、ズィヤード朝を建国しザビードを首都とした。ズィヤード朝は1018年に滅亡するが、その後イエメンを支配したナジャフ朝も1022年から1158年にかけて首都とした。ナジャフ朝滅亡後にザビードはマフディー朝の支配下に置かれたが、1173年にマフディー朝はエジプトのアイユーブ朝によって滅ぼされ、ザビードはアイユーブ朝の支配下に入る。 建設当初は一軍事拠点に過ぎなかったザビードだが、すでに10世紀に地理学者ムカッダーシーが「イエメンのバグダード」と喩えるほどの繁栄であったという。その後も着実に学術都市として発展し、12世紀の地理学者イドリースィーも紅海交易で賑わう様子を伝え、ヒジャーズ地方、エチオピア、エジプトの商人がザビードを訪れ、エチオピアの奴隷、インドの香辛料、中国から輸入された物品が取引されていたことを記録している。また1173年から1228年のアイユーブ朝による支配期に、この地域で最初のマドラサがザビードに建設されたが、当時の建築物は大モスクのミナレットを除いて失われた。
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