町の成立から昭和の住居表示実施まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 05:58 UTC 版)
「易居町」の記事における「町の成立から昭和の住居表示実施まで」の解説
易居町と生産町の区域は、明治5年に山下町、小川町の海岸の埋め立てにより誕生した土地であり、1874年(明治7年)3月に易居町、生産町として成立した。生産町は内務省の資料によると「スギハイ」と読まれており、産業振興を願って付けられた町名であると推測されている。明治時代前期頃には易居町には武士が一定数住んでいたが多数は平民が居住しており、生産町は平民が多く居住していた町人街であった。1879年(明治12年)には県営織物授産場が設置され、1885年(明治18年)には蚕糸講習所が易居町に設置された。これらは鹿児島県の産業発展に一定の役割を果たした。 1888年(明治21年)に公布された市制(明治21年法律第1号)に基づき、1889年(明治22年)2月2日に官報に掲載された「 市制施行地」(内務省告示第1号)によって鹿児島が市制施行地に指定された。3月5日には鹿児島県令第26号によって鹿児島郡のうち50町村が市制による鹿児島市の区域と定められ、4月1日に市制が施行されたのに伴い、鹿児島郡50町村(山下町、平之馬場町、新照院通町、長田町、冷水通町、上竜尾町、下竜尾町、池之上町、鼓川町、稲荷馬場町、清水馬場町、春日小路町、車町、恵美須町、小川町、和泉屋町、浜町、向江町、栄町、柳町、易居町、中町、金生町、東千石馬場町、西千石馬場町、汐見町、泉町、築町、生産町、六日町、新町、松原通町、船津町、呉服町、大黒町、堀江町、住吉町、新屋敷通町、加治屋町、山之口馬場町、樋之口通町、薬師馬場町、鷹師馬場町、西田町、上之園通町、高麗町、下荒田町、荒田村、西田村、塩屋村)の区域より鹿児島市が成立した。それまでの易居町と生産町は鹿児島市の町となった。 1901年(明治34年)から4年間にわたり行われた鹿児島港の拡張工事に伴い生産町及び小川町の陸地の一部が切り取られ鹿児島港の港内水域となった。1924年(大正13年)には易居町に鹿児島青果卸市場が開設された。 大正時代から昭和初期にかけて易居町付近では大火が多く発生した。1914年(大正3年)には易居町と生産町の区域で発生し264戸が焼失し、1919年(大正8年)には易居町の民家から出火し商業学校や名山尋常小学校など122戸を全焼し3名の死者が出た。1934年(昭和9年)には易居町の桟橋通り付近で42戸が焼失した。また第二次世界大戦終戦後の1950年(昭和25年)には小川町から出火した火災が易居町まで延焼し、185世帯が全焼し720人の罹災者、損害額7,400万円に達したため、鹿児島市はこれらの地域に災害救助法を適用した。1952年(昭和27年)には易居町から出火し86世帯が全焼した。
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