町の成立から市制施行まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 05:30 UTC 版)
「小川町 (鹿児島市)」の記事における「町の成立から市制施行まで」の解説
小川町の付近は江戸時代の弘化から嘉永年間にかけての埋立地である。小川町が町として成立した年代は不明であり、小川町という町名は1879年(明治12年)の「県治一覧概表」に初めて見える。小川町は明治時代初期には鹿児島府下上町のうちであった。 和泉屋町は江戸時代から見える町名であり、鹿児島城下上町のうちであった。「鹿児島市史第一巻」によれば宝暦年間頃の『通昭録巻七』に記載されている城下三町の上町六町のうちとして和泉屋町が記載されている。元禄9年に発生した大火では和泉屋町の借家から出火し、鹿児島城の本丸まで延焼した。詮議の結果放火であったことが判明し、犯人は市中引き回しの上、竹鋸引の刑に処された。このことが発端となり、海岸の埋め立てが行われ町屋敷が建設された。 明治時代前期には小川町、和泉屋町ともに平民が多く居住していた町人街であり、商業を営む世帯が和泉屋町に9戸あった。また、小川町には鹿児島監獄署が置かれた。明治3年(1870年)にはイギリス人医師のウィリアム・ウィリスが鹿児島医学校(現在の鹿児島大学医学部の前身)の創設者となり、鹿児島医学校の病院(別名:赤倉病院)を小川町に設置した。
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