町の成立と展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 22:04 UTC 版)
「パナマ・ビエホとパナマ歴史地区」の記事における「町の成立と展開」の解説
パナマの町が成立したのは、1513年に若きスペイン人探検家バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアが現在のパナマ東部ダリエン地域からパナマ地峡を横断し、現在のダリエン県都ラ・パルマがあるサン・ミゲル湾で太平洋を「発見」したことに端を発する。一説によると、その後1515年に現代のパナマ・ビエホ地区を訪れたアントニオ・グスマンという探険家が、砂浜で出会った青年漁師に地名を問うたところ「パナマ」と答えたことからその沿岸地域一帯をスペイン領パナマと命名した。後になってパナマとは現地インディヘナの言葉で「海産物が豊かに取れる場所」という意味であることが分かっている。その後1519年8月15日にスペイン王室からパナマ地方の総監兼総督に任命されたペドロ・アリアス・デ・アビラ によって、現在のパナマ・ビエホに太平洋沿岸で最初のスペイン植民都市が成立したのである。16世紀初頭は300人程度のスペイン人のみを抱える都市として始まったが、17世紀後半の海賊襲撃時には人口は12,000人にも膨れ上がっていた。当時から友好的なインディヘナたちをキリスト教化しながら、また一方ではスペイン人統治に反対する者には黄金輸送などの強制労働などを課した。混血も早い時期から進み、町の人口増加に拍車をかけた。 パナマの町は、成立初期はバルボアの部下としてパナマにやってきたフランシスコ・ピサロが、現地インディヘナたちの情報を元にパナマから3艘の船に乗って南米のインカ帝国を滅亡させるなど、政治的にもより多くの黄金獲得と植民都市成立のために中米や南米諸国に探検家たちを旅立たせる拠点としての役割も担ってきた。そしてその後、南米からの大量の黄金やボリビアのポトシ銀山の銀を海路で、また陸路でカリブ海へ運ぶ中継地点として栄えてきた。
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