甘粕景持
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川中島の甘粕近江守(歌川国芳画)
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
生誕 | 享禄2年1529年? |
死没 | 慶長9年6月26日(1604年7月22日) |
改名 | 長重→景持→長重 |
別名 | 総七郎、数馬介 |
戒名 | 巒樹院殿昌林盛繁居士 |
墓所 | 浄土宗栄松寺米沢市桜木町3丁目56 |
官位 | 近江守(受領名) |
主君 | 上杉謙信→景勝 |
藩 | 出羽米沢藩士 |
氏族 | 河内源氏義国流新田氏流甘粕氏 |
父母 | 父:甘粕泰重 |
妻 | 黒金景信妹 |
子 | 長男:加賀守尚政、次男・嫡子:丹後守重政 |
甘粕 景持(長重)(あまかす かげもち・(ながしげ))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。上杉氏の家臣で上杉四天王、越後十七将の一人。越後国飯塚[1]桝形城主、越後三条城主。姓は「甘糟」と表記される場合もある。
出自
甘粕氏は、以下のような諸説がある。
- 新田氏の一族で上野国(群馬県)に住したが、新田氏の衰退後、上杉・長尾両氏に仕えたという説(『清和源氏甘粕家系譜[2]』『源姓天河瀬氏系譜[3]』『上杉謙信伝(布施秀治著)[4]』『姓氏家系大辞典[5](太田亮著)』)
- 武蔵七党猪俣党の流れをくむ小野姓甘粕氏は新編武蔵風土記に武蔵国甘粕の甘粕野次廣忠として登場する(『姓氏家系大辞典[6](太田亮著)』)
- 新編相模風土記鎌倉郡條に、甘粕土佐守平朝臣清忠の名が文明9年(1477年)に、甘粕佐渡守平朝臣長俊が天正年間に大船村里正甘粕の桓武平姓甘粕氏として登場する(『姓氏家系大辞典[7](太田亮著)』)
- 近江国番蓮華寺過去帳に甘粕三郎左衛門尉清経が登場する(『姓氏家系大辞典[8](太田亮著)』)
- 上田庄の出身で、長尾為景に仕え、その子である景虎(上杉謙信)に仕えた(『温故の栞[9]』・『
上杉三代日記[10]』上杉資料集下)
- 甲信国境白峰山中に住し、狩猟を生業としていたが、上杉謙信に見出され家臣となった(『本朝武功正伝』)
甘粕家の家系図は、上記の『清和源氏甘粕家系譜』(上杉博物館蔵→現在:市立米沢図書館蔵)・『源姓天河瀬氏系譜』(市立米沢図書館蔵→現在:上杉博物館蔵)が、共に河内源氏義国流新田氏流甘粕氏と概ね一致した内容を現代に伝えている。加えて、『源姓甘粕近江守家系図』(上杉家蔵→現在:市立米沢図書館蔵)も現存するが、こちらは甘粕近江守から始まる家系図だが『源姓』を明示している。また、米沢藩の侍組の公式の席次表も甘粕家は源姓となっており、天正寺に現存する位牌も甘粕近江守源長重となっている。更に、米沢藩士・侍組・侍頭の中条因幡備資[11]が作成した侍組の変遷を記録した『家督先後録[12]』に記されている甘粕家の没年、家督の相続、享年、石高、米沢藩での役職等、現存する甘粕近江守以降家系図と合致する。以上から、現存する甘粕家の家系図は、二次資料として客観性が高いと判断でき、甘粕近江守景持(長重)の出自について、河内源氏義国流新田氏流甘粕氏とする。
前記、2本の系図『清和源氏甘粕家系譜』(市立米沢図書館蔵)・『源姓天河瀬氏系譜』(上杉博物館蔵)については、先述の通り年代の明確な誤記が確認出来るものの晩年の子供等の解釈をすれば歴史を繋げることは十文可能である。
後述するが、甘粕近江守景持(長重)の謙信時代以前の一次資料が、甘粕近江守景持(長重)の長男の加賀守尚政出奔と屋敷の火災の影響で喪失している事が本当に残念である。
因みに、太田亮先生も先述の通り『姓氏家系大辞典[5]』に於いて、新田氏流の説を書かれているが、田中弾正大弼重氏の四男甘粕備中守広氏に始まるとしており、現存する甘粕景持(長重)の甘粕家の家系図とも異なる流れとなっている。
なお、同じく上杉氏の家臣である甘糟景継は、甘粕景持(長重)の家系では遠縁と言われているが、甘糟景継の家系では、小野姓甘粕氏又は、源姓甘粕氏ではあるが、源頼光(摂津源氏)の流れの家系図が伝わっており甘粕景持(長重)の河内源氏の家系図との一致はない[13]。
生涯
前半生
景持(長重)の謙信時代の書状・感状類の多くが、景持(長重)の長男・加賀守尚政が、文禄2年(1593年)出奔[14]した際に持ち去られ、残っていた写し一巻も寛文11年(1671年)に屋敷が火災にあった際に焼失したために残っていない[15]。
そのため、謙信時代の景持(長重)の事跡は、現存する甘粕家の家系図、大日本古文書 家わけ十二ノ二 上杉家文書、上杉家御年譜、地域の伝承に頼るしかない。
信憑性に関して問題のない大日本古文書 家わけ十二ノ二 上杉家文書、上杉家御年譜に景持(長重)は存在しており、謙信時代に重臣として仕えていたことは間違いない。
誕生から謙信時代
生年は不明だが、『源姓天河瀬氏系譜』(上杉博物館蔵)の記述に天文11年(1542年)には14歳[16]であった。ここから類推すれば享禄2年(1529年)の誕生となる。越後長尾氏・上杉氏に仕え、桝形城や三条城の城主であったといわれるが、桝形城に関しては、領有の経緯や真偽については不明な点が多く、『温故の栞[17]』・『越後古城記[18]』・『飯塚村誌[19]』・『上杉謙信伝(布施秀治著)[20]』に景持(長重)の居城であったと記されるなど古くからの伝承がある一方、『源姓甘粕近江守家系図[21]』(市立米沢図書館蔵)・『清和源氏甘粕家家譜[22]』(市立米沢図書館蔵)・『源姓天河瀬氏系譜[23]』(上杉博物館蔵)では、三条城将であったとしか記されていない。
江戸時代の書物「信濃のさざれ石」には、天文16年(1547年)10月、景持(長重)19歳の時、主君である長尾景虎が髻山に城を築く際に、完成するまでの仮の砦として、長野県長野市豊野近辺に景持(長重)が三日城[24]を築城したと言われている。
初名は長重であったが、長尾景虎から偏諱を受け景持と改名したと『源姓天河瀬氏系譜』(上杉博物館蔵)に記されている。一方で、越後・会津・米沢藩時代の分限帳や現存する書状には長重の名前しか残されていないため、長尾景虎が関東管領家の名跡を継いで上杉政虎に改名した際に長重に戻したのではと推測される(代々甘粕家に伝わる)[25]。
永禄2年(1559年)10月28日、上洛していた景虎が帰国した際に、越後の諸将は長尾景虎の壮挙を祝して太刀を贈ったが、景持(長重)も「披露太刀之衆」(国人衆)の一人として金覆輪の太刀を進呈してる[26][27]。
永禄4年(1561年)3月、長尾景虎による関東管領・上杉憲政を奉じた関東出陣に従い、北条氏康の籠る小田原城攻撃にも従軍した。また、3月16日、景虎が関東管領職と上杉の名跡を継承した鎌倉鶴岡八幡宮での式典の際には、景持(長重)は、宇佐美定満・柿崎景家・河田長親と共に御先士大将を務めている[28][29][30]。長尾景虎改め上杉政虎と共に6月21日上野国・厩橋城を経て6月28日春日山城へ戻ったと思われる[31]。
甘粕近江守ここにあり
上杉政虎(謙信)は、永禄4年(1561年)8月、川中島に出陣して甲斐国の武田信玄と対峙した(第四次川中島の戦い)。この戦いで千曲川に布陣して妻女山から下ってくる武田軍の別働隊と激戦を繰り広げて時間を稼いだ。その後、本体と合流し、撤退する上杉勢の殿軍をよく務めた。後世に景持(長重)の名前が残る大きな活躍となった。この激戦で景持(長重)は左の首筋を負傷し生涯首が不自由であったと伝えられている[32]。また、この激戦の中、立物を射落とされた景持(長重)は、戦後、謙信よりその奮闘を称賛され感状と共に藤原鎌足の子孫[33]ということで金の鎌の立物を拝賜する[34][35]。
なお、第四次川中島の戦いで上杉本陣に祀り、謙信自ら戦勝祈願の護摩を厳修したと伝えられる不動明王立像を、この戦いの帰途の際に、景持(長重)は、柿崎景家・直江景綱と共に現在の長野県須坂市にある米子瀧山威德院不動寺の本尊として安置したという(写真中:沿革参照)[36]。
永禄5年(1562年)5月上旬、輝虎の武蔵国・私市城攻めに従軍し上野国・厩橋城を出発する[37]。景持(長重)が、私市城攻略後、厩橋城に戻ったか、越後に戻ったかは不明。
永禄7年(1564年)8月10日、輝虎の第五次川中島の戦いに、景持(長重)は、中条越前守藤資と共に遊軍として出陣する。8月17日景持(長重)は、中条藤資と七百騎を率いて武田信玄本陣へ夜襲をかけ、首級80余をあげる戦功を上げる[38]。
この後の動向に関しては、上杉家御年譜で確認をすることが出来ない。遠征に従軍をしていれば名前が出ているはずである。越後国外の前線での留守の役回りだったと想定される。
天正三年軍役帳・天正五年上杉家中名字盡
前者が文字通り有力家臣の軍役を掲載したものであり、後者に関しては翌年の関東討伐の有力家臣の氏名が列挙されたものである。
共に12月に残された記録であるが、甘粕近江守景持(長重)の名前がない。有力武将でありながら名前がないのは非常に不思議である。
有力武将の中では、この時期に上杉謙信の家臣であった高梨政頼又は頼親、須田満親、黒金景信、黒金尚信、本庄繁長等の名前がない。
歴史家の考察として、共に越後に配置をされている武将について列挙されていると言われており、少なくともこの時期に甘粕近江守景持(長重)は、越後国外(越中・上野・北信濃 他)に配置されていたものと想定される。
景勝時代(越後)
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旧三条競馬場跡にある三条城の石碑・新潟県三条市下須頃(クリックして拡大)
【写真提供:甘粕健(たけし)氏】 |
謙信没後は上杉景勝に仕えた。天正10年(1582年)、新発田重家の乱に際して、景勝から三条城将に命じられ、木場城の補佐や新潟城・沼垂城攻略にあたり、城攻撃の兵站基地を守備する重責を担った。石高は、1,717石4斗6升[39][40][41]。
天正12年(1584年)4月16日、景持(長重)は、奉行人の泉沢河内守久秀に、下越地方の動向を景勝に報告するとして「三条城の普請をおこない、町屋を場内に入れて厳重に監視することにしたこと、新発田重家征伐に当たり、小国・黒滝・木場の人質を三条城に置くこと、白川(北蒲原郡)、新津(新津市)、安田(北蒲原郡安田町)、菅名(中蒲原郡村松町)、護摩堂(南蒲原郡田上町)、会津口の情勢などについて」報じ、加えて、「山吉豊守の後を継いだ景長が若輩なので注意を払うよう」伝えている[42]。特筆すべきは、蒲原地区(本来小国氏の支配地)の情勢を報告しており、小国氏(小国地区)、山岸氏(黒滝地区)、山吉氏(木場地区)の人質を景持(長重)の居城である三条城に置いている点である。いかに景持(長重)が、景勝に信頼される重臣として働いていたことが伺える書状である。
時期は不明だが、天正11年~14年(1583年~1586年)の間と思われる景勝からの書状が3通が、今に伝わっている。1通は、甘粕健(たけし)氏に伝わっている。

【写真提供:甘粕健(たけし)氏】
1通は、薬のお椀を送ったことに対する景持(長重)への景勝からのお礼ともう一つ追加で送って欲しいという依頼、また、下越の状況に問題ないことを評価し、引き続き油断なく警戒するよう厳命をされている[43]。
もう1通も新発田重家との戦時下の状況と思われ、景持(長重)が、助勢に向かわせた事を評価し、引き続き油断せず体制を保つことを命じられている[44]。
甘粕家に伝わるものは、景持(長重)が、下越地方の状況を飛脚で伝えたことを景勝が喜んでいることを伝え、城の普請を確り行い、警戒を怠らないように命じられている。
何れも、新発田重家との戦時下での緊張感を伝える内容となっている。
天正12年(1584年)8月12日、羽柴秀吉の佐々成政攻め(富山の役)に呼応して越中に進出した景勝が、「心配をしただろうが、首尾よく終わり越後へ帰る」こと「詳しいことは、直江と泉沢から伝えさせる」こと、景持(長重)から鷹が贈られてきた(鷹到来)ことへのお礼が書かれた書状を景持(長重)へ送っている[45]。
天正13年(1585年)8月4日、景持(長重)は、景勝より三条城の普請について「できるだけ早く完成させることが肝要である」と命じられ、「変わりがないことに安心しました」と語る一方で、「何事も油断をしないように」と命じられた[46]。
天正14年(1586年)5月3日、景持(長重)は、景勝の上洛に対し祝詞を申し上げ、景勝より「火急の際は一致団結して敵を撃退する」よう命じられた[47]。
天正14年(1586年)8月18日、新発田重家征伐に際して、景持(長重)は、御鉄砲大将として大石源之丞元網、左近司伝兵衛らと共に笠堀に布陣した。新潟・沼垂で敵将を討ち取る戦功をあげ、10月29日に景勝から山吉玄番と共に戦功を賞賛され感状を受ける[47]。
文禄4年(1595年)6月11日、景持(長重)は、家老・直江兼続の命により、上松弥兵衛と共に蒲生郡出雲田庄、大槻庄、保内の検地奉行となる[45]。
景勝時代(会津若松)
上杉氏が慶長3年(1598年)の会津若松の移封に従い、禄は3,300石。
慶長5年(1600年)2月9日、景持(長重)は、景勝より、白河表の敵方の様子の報告に対するお礼と状況に応じ対応すること、(白河小峰城と思われる)城の普請をするよう命じられている[48]。
慶長5年(1600年)7月28日、景持(長重)は、景勝より、白河方面が平穏である報告を評価し、(白河小峰城と思われる)切手門が完成したことに安堵したことを伝えられている。加えて、りんごを送って貰ったことに対するお礼を受けている[48]。
歴史家の中では、慶長出羽合戦の際には、景持(長重)は、白石城に在城していたというが、根拠を示されておらず、一次資料である書状を見る限り、白河小峰城に在城していたとみるのが妥当であろう。
景勝時代(米沢)
慶長6年(1601年)の米沢の移封に従い、禄は1,100石。
また、慶長7年(1602年)には米沢に天正寺を開基した。天正寺には甘粕景持(長重)の位牌がある。
慶長9年6月26日(1604年7月22日)、米沢にて死去。曹洞宗龍言寺に葬られた。
寛永2年(1625年)に龍言寺の改装があり、嫡子・丹後守重政が、位牌を天正寺に移し、墓を栄松寺へ移した。
現在は、甘粕氏の歴代の墓は、栄松寺にある。
第四次川中島の戦いでの後世の景持(長重)の評価
- 『
甲陽軍鑑』では、「甘粕近江守は、雑兵と共に千人の部隊を少しも散らすことなく、武田方の大軍を受け止め、(敗走する)越後勢全軍が逃げるための退路を確保し、静かに二十町(約2.2キロメートル)ほど後退しました。これを見て、謙信の本隊だと見間違える者が多くいました。甘粕近江守自身は少しも崩れませんでした。彼は六、七騎の供と四、五十人の雑兵を連れて犀川(さいがわ)を渡り、川の向こう岸に三日間留まりました。そして、敗走してきた越後勢の兵を集めてから帰陣しました。この甘粕近江守の働きぶりは、近隣の国々はおろか遠い国にまで知れ渡り、称賛しない者はいませんでした。謙信秘蔵の侍大将の中でも、甘粕近江守は筆頭と言えるでしょう[49]。」と激賞されている。
- 『
松隣夜話』では、「甘糟近江守は、葛尾山という所に二日間留まった。三つの旗を立て、退却に遅れた雑兵や下人たちを集め、手傷を負って倒れ伏している者たちの生死を確認し、手当てをした。敵の拠点である貝津からわずか十五町(約1.6キロ)しか離れていない場所で、このように戦後処理をやり遂げた様子は、本当に噂に違わぬ勇気と知謀を兼ね備えた侍大将であると、評判になったということである[50]。」と称賛されている。
- 『
川中島合戦評判』では、「その時、上杉輝虎(後の謙信)は、まず甘糟景持に一千の兵を率いさせて堅い守りの部隊を編成させ、(中略)中でも甘糟景持は、犀川を挟んで眼前の大軍と対峙し、三日間もその場に馬を留めて動じなかった。その間に敗走してきた味方の兵を収容し、意気揚々と引き揚げていった。当時の人々で、その勇猛さを称賛しない者はなかったということだ[51]。」と評されている。
- 『
春日山日記[52]』『
越後軍記[53]』においても上記三つの軍記物と同様に、景持(長重)の殿軍としての活躍ぶりと犀川を挟んで目前の敵と対峙し三日間駐留し負傷した自軍の残党を纏めて悠然と退却する姿が克明に描かれている。
- 吉川英治著『上杉謙信』の中では、「このとき、甘糟近江守とその手の者の働きは、実にめざましいものがあった後々まで、上杉家に甘糟あり。と天下の著聞になった[54]」と描かれている。
- 『NHK・歴史への招待/決戦川中島後編』の中で、「上杉軍の殿軍を務めた甘糟近江守の奮戦が上杉軍の全滅を救った。」と語られている[55]。
春日山城・甘粕近江守宅阯
春日山城の甘粕近江守景持の屋敷は、上杉三郎景虎屋敷前方の三の丸付近にあったと言われている。
屋敷の位置を考んがえれば、謙信時代からの重臣、側近であったと思われる。
桝形城・新潟県長岡市飯塚3259桝形山自然公園
景持(長重)が築城し、本拠としたと伝承される桝形城[17][18][19][20]。
桝形城の説明版には、宇佐美駿河守も城主であったと書かれている。
岩田神社・新潟県長岡市岩田2750
桝形城の南東にある、景持(長重)が信仰した熊野神社が合祀されている岩田神社。
墓所・位牌
伝・甘粕近江守甲冑
腰差・籏・馬驗・指物
家紋
甘粕家の家紋は『丸に万』と『七つ割二引き』の2種類あり、腰差と指物からきている。
景持(長重)→重政(景持嫡子)→忍重(重政嫡子)に二人の子供がおり、長男の重親の家系が『丸に万』の家紋を使用し、次男の重成の家系が『七つ割二引き』の家紋を採用している。
子孫の項目の甘粕家は、全員、重成の家系である[56]。
同心
『文禄三年定納動員目録』に記載されている同心は、以下の通りである[39]
青木清右衛門:95石9斗8升 | 福崎彦七郎:59石9斗7升 | 鈴木勘助:47石2斗 |
小幡喜兵衛:203石9斗7升 | 丸山平左衛門:131石7斗1升 | 平賀総次郎:60石8斗 |
小池半助:50石9斗7升 | 片桐助平衛:65石8斗5升 | 吉益縫殿助*:29石5斗 |
山田弥左衛門:51石8升 | 石墨孫次郎:49石6升 | 竹俣次郎右衛門:33石2斗5升 |
『越後分限帳』に記載されている同心は、以下の通りである[40]
青木清右衛門:90石9斗8升 | 福崎彦七郎:59石9斗7升 | 鈴木勘助:49石2斗 |
小幡喜兵衛:203石9斗7升 | 丸山平左衛門:131石7斗1升 | 平賀総次郎:60石8斗 |
小池半助:50石9斗7升 | 片桐助平衛:65石8斗5升 | 吉岡縫殿*:29石5斗 |
山田弥左衛門:51石8升 | 石墨孫次郎:49石6升 | 竹俣次郎右衛門:29石5斗 |
『上杉候家士分限簿』に記載されている同心は、以下の通りである[41]
青木清右衛門:95石9斗8升 | 福崎彦七郎:59石9斗7升 | 鈴木勘助:47石2斗 |
小幡喜兵衛:230石9斗7升 | 片桐助平衛:65石8斗5升 | 平賀総次郎:60石8斗 |
小池半助:50石9斗7升 | 丸山平左衛門:131石7斗1升 | 吉田縫殿*:29石5斗 |
山田弥左衛門:51石8升 | 石墨孫次郎:49石6升 | 竹俣次郎右衛門:33石2斗5升 |
*同一人物であると思われるが著者が崩し文字を翻刻文字にする際に非常に判読が難しかったと思われる
子孫
子孫は代々米沢藩士として仕えた。
主に山形県・東京都・愛知県・神奈川県・静岡県に現存している。
甘粕事件で知られる甘粕正彦、三菱信託銀行社長甘粕二郎、陸軍中将・甘粕重太郎、陸軍大佐・甘粕三郎、マルクス主義経済学者・見田石介、東大名誉教授・見田宗介、漫画家・見田竜介、新潟大学名誉教授(考古学)・甘粕健、歯科医師・甘粕洋一、トヨタキロルスカモーター(TKM)元上級副社長・甘粕近江守研究家・甘粕健(たけし)、歯科医師・甘粕絢太も子孫である。
家系図

【提供:甘粕健(たけし)氏】
脚注
- ^ 現新潟県長岡市。
- ^ 花ヶ前盛明『桝形城』越路町教育委員会、1975年3月1日、21頁,42頁。「清和源氏甘粕家系譜(当時:上杉博物館蔵→現在:市立米沢図書館蔵):義家ノ子義国ノ孫重兼天河瀬ノ地ヲ領セシニ因リ姓ヲ甘粕ト改ム、時正二南北朝ノ対立二乱ル、即チ甘粕家ハ一族ヲ挙ゲテ南朝二投ジタリ、足利一統ノ世上野二籠居シ刑部大輔ノ官位返上ス、後世上杉憲顕二随セリ、甘糟景持二上杉謙信ノ信任厚ク近江守二任ゼラレ戦国ノ世二武名高カリキ、」
- ^ 花ヶ前盛明『桝形城』越路町教育委員会、1975年3月1日、21頁,49頁。「源姓天河瀬氏系譜(当時:市立米沢図書館蔵→現在:上杉博物館蔵):上野国新田六十六郷之内天河瀬郷ヲ甘粕トモ伝領ス依テ苗字トス、(略)元弘年中高時滅亡ノ時新田義貞ノ手二属シ戦功ヲ尽シ後新田義宗義興脇屋義治等ノ手二在テ戦功アリ足利一統代トナリ上野国二籠居後鎌倉公方左馬頭基氏ノ執事上杉民部大輔上杉憲栄二随越後二来魚沼郡上田ノ庄ノ内中野郷坂戸山ノ城代々伝領ス、」
- ^ 布施秀治『上杉謙信傳』謙信文庫、1917年。「甘粕氏は、新田氏の門葉にして、上野に居りしが、新田氏衰えしより越後に入り、上杉・長尾両家に仕えたり、」
- ^ a b 太田亮『姓氏家系大辞典』姓氏家系大辞典刊行会、1936年。「源姓甘糟氏 越後國古志郡の豪族、源姓といふ。飯塚城また灰毛城、升形城は北灰毛村山中にありて、甘糟氏の居城云ふ。此の甘糟氏は新田氏の族田中弾正大弼重氏の四男甘糟備中守廣氏より出づ近江守景持に至り、謙信に従ひ軍功多し、嫡子を備後守と云ふ。」
- ^ 太田亮『姓氏家系大辞典』姓氏家系大辞典刊行会、1936年。「小野姓甘糟氏 源平盛衰記に武蔵國住人甘糟太郎と。新編(武蔵)風土記甘糟村條に甘糟村、按に當所は古へ甘糟野次廣忠等の居住せし所と見ゆ、」
- ^ 太田亮『姓氏家系大辞典』姓氏家系大辞典刊行会、1936年。「平姓甘糟氏 新編相模風土記鎌倉郡條に「大船村里正甘糟を以てす、家系舊記等を傳へず、唯家に舊き木牌を置けり、一に『甘糟土佐守平朝臣清忠、文明九丁酉天』と刻し、一に『甘糟佐渡守平朝臣長俊、天正十壬午天』長俊始め太郎左衛門と稱せり、即ち永禄十年常楽寺文殊像を修飾し、天正七年鎮守熊野社の神體を勧請せしは此人なり」と。然らば桓武平氏にして前條氏と族を異にするか。」
- ^ 太田亮『姓氏家系大辞典』姓氏家系大辞典刊行会、1936年。「近江國番場蓮華寺過去帳に甘糟三郎左衛門尉清経、同七郎知清を載せたり。」
- ^ 『温故の栞・第二巻』温故の栞刊行會、1890年、57頁。「景持は魚沼郡上田荘の民間より出て、長尾為景に仕へ忠勇無比なれば、謙信の時、一手の将に立身せり、」
- ^ 上杉三代日記(引用):一、甘糟近江守、越後・上田長塚の者、謙信取立なり
- ^ 米沢藩士。宝暦5年(1755年)に侍組入り、同12年(1762年)に侍頭。明和2年(1765年)に故あり隠居。
- ^ 寛政9年(1797年)4月28日自著。慶長7年(1602年)の侍組座並を始めに記し、その後の侍組の家督や、変遷を記す。また、跋文には上杉家が越後から会津120万石、米沢30万石、同15万石への変遷経緯を記し、直江兼続等を厳しく批判している。
- ^ 甘粕近江守研究家である甘粕健(たけし)氏からの情報提供:甘糟景継のご子孫と甘糟景継の菩提寺である常安寺を通じて親交があり家系図を入手され、情報をご共有いただいた。
- ^ 長男甘粕加賀守尚政の出奔については、中条因幡備資が作成した『家督先後録』にも追記されている。
- ^ 花ヶ前盛明『桝形城』越路町教育委員会、1975年3月1日、51頁。「源姓天河瀬氏系譜(当時:市立米沢図書館→現在:上杉博物館) 文禄二年浪人此節先祖以来相伝ノ御書感状過半并系図ヲ持行ト雖兼テ写ノ一巻有之処寛文十一年家宅類焼ノ節鳥有トナル依テ統々系年月及ヒ巨細ノ事無ノ尚政後二本多中書二在之由也」
- ^ 花ヶ前盛明『桝形城』越路町教育委員会、1975年3月1日、50頁。「天文11年(略)此時長重14歳也」
- ^ a b 『温故の栞』温故の栞刊行會、1890年。「三島郡太田荘飯塚の山入桝形の古城跡は、上杉家の将 甘粕近江守景持が居城にして、西を大手とし搦手・出丸・空壕の跡山に拠る」
- ^ a b 越後古城記の中の記述に「三島郡飯塚灰毛之城主甘粕近江守、此近江守は備後守の父なり、上杉安房守清方の家来なり、代々越後の三島郡飯塚灰毛之城主なり、」とある(近江守と備後守は父子ではない、上杉清方とは世代が違うが、古くから甘粕家が土着していたと思われる)
- ^ a b 『飯塚村誌』飯塚村役場、1877年。「桝形城は上杉氏の臣甘粕近江守景持の築城と言伝う、」
- ^ a b 布施秀治『上杉謙信傳』謙信文庫、1917年。「景持近江守と称し、三島郡飯塚灰毛城に居り、謙信に従ひ戦功あり、」
- ^ 花ヶ前盛明『桝形城』越路町教育委員会、1975年3月1日、44頁。「源姓甘粕近江守家系図(当時:上杉家蔵→現在:市立米沢図書館蔵)謙信公御代軍功之勇士也於越後三条住居、、、」
- ^ 花ヶ前盛明『桝形城』越路町教育委員会、1975年3月1日、44頁。「清和源氏甘粕家系譜(当時:上杉博物館蔵→市立米沢図書館蔵)上杉景勝公ノ御代三条ノ城代ヲ命ゼラル」
- ^ 花ヶ前盛明『桝形城』越路町教育委員会、1975年3月1日、50頁。「源姓天河瀬氏系譜(当時:市立米沢図書館蔵→現在:上杉博物館蔵)景勝公ノ御代越後三条ノ城二暫ク在城ヲ命セラル」
- ^ “長野市・川中島の戦い総合サイト>史跡をめぐる>上杉関連>三日城跡”. 長野市(法人番号3000020202011). 2025年7月31日閲覧。 “長野市豊野町にある。上杉謙信が川中島への前衛拠点のために髻山城[もとどりやまじょう]を築いた際、完成するまでの間、家臣の甘粕近江守に命じて、わずか三日で築かせたと伝わる城。三日城跡近くの丘陵には、川中島の戦いの際に上杉勢が旗を立て並べたといういくつもの旗塚が残っており、善光寺平への備えと考えられている。”
- ^ 甘粕近江守研究家の甘粕健(たけし)氏より情報提供:長尾氏である景虎からの偏諱に対し、藤原氏の上杉氏に主君が変わったことで旧名長重に戻した。
- ^ 米沢温故会『上杉家御年譜 第1巻 謙信公』米沢温故会、1989年、109頁。ISBN 978-4562019809。
- ^ 東京大学資料編纂所 編『大日本古文書 家わけ十二ノ二 上杉家文書之二』財団法人東京大学出版会、1971年2月20日、549頁。 ISBN 978-4130911221。
- ^ 花ヶ前盛明『桝形城』越路町教育委員会、1975年3月1日、50頁。「源姓天河瀬氏系譜(当時市立米沢図書館蔵→現在上杉博物館蔵)永禄四年鎌倉鶴岡八幡宮前二於テ管領二任セラルル節御先士大将宇佐美駿河守柿崎和泉守甘粕近江守河田豊前守四頭也」
- ^ 花ヶ前盛明『桝形城』越路町教育委員会、1975年3月1日、42頁。「清和源氏甘粕家系譜(当時:上杉博物館蔵→現在:市立米沢図書館蔵)公鶴岡八幡宮二於テ管領二任ゼラルルノ節御先士大将宇佐美駿河守柿崎和泉守甘粕近江守河田豊前守ナリ」
- ^ 太祖一代軍記(引用):永禄四年辛酉、三十二歳、正月関東諸士厩橋城出仕、年頭の礼あり。同月廿三日、輝虎二万にて、義氏御所古河城を攻め、放火。関宿を攻落し、川越・葛西・岩槻・忍辺を巡見。三月中旬に、相州小田原へ押寄する。(中略)近衛関白前嗣公を公方と称し、昔、鎌倉御所の召されたる古き小八葉の車を求出し、是に乗せ奉り、輝虎は、管領になりて供奉せらる。上杉の家老小幡・白倉・見田・大石以下を側近く召連れ、宇佐美駿河守定行・柿崎和泉守景家・甘糟近江景持・川田対馬守清永以下譜代の家人、猶ほ其傍を堅むる。小幡参河守憲村には、輝虎是に太刀を持たす。竹股右衛門尉朝綱・色部修理亮長実・石川備後守房明・山吉孫次郎親章・毛利上総介広俊・大関阿波守親益・杉原壱岐守・加地但馬守・松川大隅守・平賀志摩守・鳥山因幡守等、供奉の内なり。
- ^ 米沢温故会『上杉家御年譜 第1巻 謙信公』米沢温故会、1989年、136-149頁。 ISBN 978-4562019809。
- ^ 花ヶ前盛明『桝形城』越路町教育委員会、1975年3月1日、50頁。「源姓天河瀬氏系譜(当時:市立米沢図書館蔵→現在:上杉博物館蔵)同(永禄四年)年九月十日川中島御一戦ノ時(中略)殿ハ景持也此御合戦後二越後方俄二崩悉ク苦戦シ景持ノ首筋二疵ヲ蒙リ深手故犀川ノ向二三ヶ日芝居シ疵ヲ療治シ残党ヲ引纏ヒ後日越後二皈ル此疵ニテ生涯首不自由也」
- ^ 【藤原氏の子孫という意味】甘粕近江守研究家の甘粕健(たけし)氏からの情報提供:清和源氏自体が、藤原氏と外戚関係であること、また上杉氏が、藤原氏の出であり、同じく藤原鎌足の子孫であることから来ている
- ^ 花ヶ前盛明『桝形城』越路町教育委員会、1975年3月1日、50頁。「源姓天河瀬氏系譜(当時:市立米沢図書館蔵→現在:上杉博物館蔵)苦戦二依テ立物ヲ打落サル此節御感状二御家ハ鎌足ノ御末ナレハトテ金ノ鎌ノ立物拝賜ス」
- ^ 花ヶ前盛明『桝形城』越路町教育委員会、1975年3月1日、44頁。「清和源氏甘粕家系譜(当時:上杉博物館蔵→現在:市立米沢図書館蔵)近江守此ノ一戦二立物ヲ射落サル此ノ節御感状二御家ハ大織冠藤原鎌足公ノ御朱ナレバトテ金ノ鎌ノ立物ヲ拝賜ス」
- ^ 米子瀧山威德院不動寺 現地案内板 沿革より引用:永禄四年(一五六一)年九月川中島第四回の合戦の際、陣中に祀り戦勝祈願の護摩を厳修したと伝えられており帰途の折り、重臣柿崎景家・甘糟景持・直江実綱の手により現在当寺奥之院に不動明王を本尊として安置しここに寺号を米子瀧山威德院不動寺と改め現在に至っております。
- ^ 米沢温故会『上杉家御年譜 第1巻 謙信公』米沢温故会、1989年、192頁。 ISBN 978-4562019809。
- ^ 米沢温故会『上杉家御年譜 第1巻 謙信公』米沢温故会、1989年、233-234頁。 ISBN 978-4562019809。
- ^ a b 矢田俊文;福原圭一;片桐昭彦『上杉家分限帳ー越後・新潟・米沢ー』新潟大学、2008年10月1日、21頁,22頁。
- ^ a b 矢田俊文;福原圭一;片桐昭彦『上杉家分限帳ー越後・新潟・米沢ー』新潟大学、2008年10月1日、106頁。
- ^ a b 矢田俊文;福原圭一;片桐昭彦『上杉家分限帳ー越後・新潟・米沢ー』新潟大学、2008年10月1日、131頁。
- ^ 高橋義彦『越佐資料 6巻』高橋義彦、1931年、499-500頁 。「十六日、好越後三條城守將甘糟長重、景勝ニ下越ノ情勢ヲ答報ス、〔歷代古案〕cc羽前御書謹而奉拜見候、如被仰下、御普請之儀、御檢使致談合、隨分無如在相稼申候、以前凶徒罷出、河西之儀亡〓ニ罷成候間、御人脚無之候條、如存分ニ不罷成候、雖然手組井自(南蒲原郡三條)(絡カ)分之召使を以、過半出來申候、仍城町表之御曲輪今度致構を成就仕候、井林邊踞江西(西蒲原郡)四月張季自錄本仕候於御合語シ使ニ者で如如在イ石依臨馬小國盛種御當地へ被差越候、小國家中之證人三人請取申候、黑瀧家中之證人者、定而今明日中ニ可罷越候、兩城之御仕置可然奉存候、木場之義者、山吉一悠齋證人御當地ニ差置申(西蒲原郡卷)(北蒲原郡)者、是も御當地ニ證人指置申候、下郡如斯候仍、白河之儀、今日迄者無相替儀候、篠岡之河西亡〓三條城ノ普請小國黑瀧木場ノ質ヲ三條ニ置ク山吉一悠〓內ノ人白河金谷城衆度々如申上金谷與申地を取立安田〓往復不自由ニ候間、彼地之御仕置相極候、(儀下同ジ)下條之義も堅固ニ相抱候、以前下條如申越者、新津筋之河邊ニ自然寄居をも取立申(中蒲原郡)候ハゝ、迷惑之由申越候キ、安田之義者當地之地衆林邊無如在御番申候、扨亦、菅名之儀、是も無相替儀候、雖然孫四郞若輩ニ候間.但馬在世ニハ可相替候條、別而被入御念御肝要ニ奉存候、今度富永被差越、彼庄之御仕置被成候事、是亦乍恐可然奉存候、一昨(南蒲原郡)日護摩堂之地へ罷越候間、彼庄之樣體近日御注進可申候、就之彼證人をも御當地ニ可被差置候由御諚ニ候間、富永相渡申候者、急度御番可申候、將亦會津口之義も、先以無相替儀候由、境目〓至今日も申來候、先々如申上。會津口も御上使を被差越、彼國之模樣をも被御聞屆御尤ニ奉存候、兼而又御當地御用心之儀、御普請之取紛與乍申、片時も油斷を不申候、摠體御廻輪之內ニハ、自他國往還之者をハ入不申、宿城之儀者、所之爲ニ候間、及穿鑿ニ、商人之義をハ地之町人請乞申をハ、出入爲申候、於何事も、油斷不申候、菅名之庄中之儀ハ、伊藤大學助を被召爲居候間、委細彼者可申上候間、卒度御尋御尤奉存候、珍敷儀候者、急度可申上候、如此之趣御披露所仰候、恐惶謹言、追而申上候、所々御味方中、細々及脚力模樣承候、猶以御諚之上者如在申間敷候、承子細候者、早速可申上候、以上、天正十二年四月十六日新津安田菅名孫四護摩堂會津口菅名莊天正十二年四月十六日甘糟近江守長重(花押)(天正十二)卯月十六日長重(花押)(久秀)泉澤河内守殿」
- ^ 上越市史編さん委員会『上越市史別編2 上杉氏文書集二』上越市、2004年、141頁。
- ^ 高橋義彦『越佐資料 6巻』高橋義彦、1931年、501頁 。「書中具令披見候、仍而、河下へ助勢之事、畢竟申付候由、簡要候、雖無申迄候、其元用心普請之義不及申、何も無油斷申合、其擬千言萬句、猶萬吉左右重而可申越候、謹言、五月十三日景勝甘粕近江守殿」
- ^ a b 『上杉家記』巻二十九、市立米沢図書館蔵
- ^ 上越市史編さん委員会『上越市史別編2 上杉氏文書集二』上越市、2004年、499頁。
- ^ a b 『景勝公御年譜五』、市立米沢図書館蔵
- ^ a b 上越市史編さん委員会『上越市史別編2 上杉氏文書集二』上越市、2004年、142頁。
- ^ 甲陽軍鑑/品第卅二(引用):輝虎の後備甘数(粕)江守雑兵共に千の備を、少もちらさず、敵味方の勝負にも搆はず、越後勢総人数のくずれにげる道を、殊に静々と通り退くこと廿町斗なり、是を謙信とみる者多し、高坂弾正衆に伐くづされ二十町程過ては、甘数(粕)衆も皆乱るれ共、近江守は崩れず、六七騎にて雑兵四五十つれて、さい川をこしさい川のあなたに、三日逗留仕敗軍の越後勢をあつめ帰陣仕る甘数(粕)近江守近国他国に誉ざるはなし謙信秘蔵の侍大将の甘数(粕)近江守は、かしらなり、
- ^ 松隣夜話 巻之上(引用):甘糟近江、葛尾といふ所に、両日逗留。三旗打立て、引後れたる雑人・下部を集め、手負ひてよろぼひ臥したる者共の生死を窮め、貝津よりは僅に十五町を隔て、取納めたる体、実にも聞ゆる勇気智謀兼備せる侍大将なりと、沙汰ありける。
- ^ 川中島合戦評判(引用):時に輝虎、甘糟をして、一千兵を属して固隊し、直江二千に将として、輜重を守らしめ、(中略)然れども猶ほ直江・甘糟は崩れず。部を整へ曲を正して、徐々として退く。就中甘糟、犀川を隔てて、面前大敵に並び、三日馬を駐めて自如たり。且つ敗散の兵を聚め、意気揚々として還る。時俗其勇を嘆ぜずといふ事なし。
- ^ 春日山日記(引用):に甘糟近江守が備を以て、大将の本陣とし、謙信は後陣を先陣となして、敵の不意に出づるの兵術なり。(中略)其時、後を顧みれば、信玄の旗本勢、甘糟・直江に相向つて、入乱れて相戦うて、広瀬川へ引退けりといへり。後に、彼の床几に腰かけたる武者を問へば、是信玄なりといふ。信玄、初は越後の通路を遮り塞ぎて、越後勢を討取らんと謀ると雖も、返つて甲州の歴々の士、過半討たれて、越後勢は、名ある士一人も討たれず。唯途に迷ひたる雑兵、少々討たるゝ計りなり。【甘糟越後勢引取り帰国の事】一、此時、甘糟近江守、西川の辺に三日陣を張つて、雑兵を集め勢を揃へて帰国するなり。
- ^ 越後軍記(引用):時に後を顧れば、信玄が旗本の勢、味方の甘糟近江守・直江山城守が備に向つて入乱れて相戦ひ、広瀬川へ引退きけり。(中略)此の時、甘糟近江守、西川の辺に三日陣を張つて、雑卒を集め勢を揃へて帰る。
- ^ 吉川英治『上杉謙信』株式会社六興出版、1972年11月27日、237頁。
- ^ 1979年10月18日NHK総合放送:鈴木健二アナウンサー、ゲスト新田次郎、浅野祐吾、安井久善
- ^ 甘粕近江守研究家である甘粕健(たけし)氏からの情報提供
参考文献
書籍
- 花ヶ前盛明『桝形城』 越路町教育委員会、1975年。
- 花ヶ前盛明『新潟県人物小伝 上杉謙信』 新潟日報事業者、2010年。ISBN 978-4861323850
- 花ヶ前盛明『上杉謙信【新装版】』 新人物往来社、2007年。ISBN 978-4806194071
- 花ヶ前盛明『上杉謙信と春日山城』 新人物往来社、1984年。ISBN 978-4404012173
- 布施秀治『上杉謙信伝』 謙信文庫、1917年(大正6年初版、旧字体では『上杉謙信傳』)
- 花ヶ前盛明『上杉謙信 ゆかりの地を訪ねて』新潟日報事業所、2002年。ISBN 978-4888629225
- 花ヶ前盛明『新編上杉謙信のすべて』新人物往来社、2008年。ISBN 978-4404035110
- 米沢温故会『上杉家御年譜 第1巻 謙信公』米沢温故会、1989年。ISBN 978-4562019809
- 米沢温故会『上杉家御年譜 第24巻 御家中諸士略系譜 2』米沢温故会、1989年。ISBN 978-4562020034
- 矢田俊文;福原圭一;片桐昭彦『上杉家分限帳ー越後・新潟・米沢ー』新潟大学、2008年。ISBN 978-4862150417
- 吉川英治『上杉謙信』株式会社六興出版、1972年。
- 藤根井和夫(編集)『歴史への招待⑪』日本放送協会、1981年。
- 花ヶ前盛明『上越の史跡と人物』上越タイムス社、2002年。ISBN 978-4902068016
- 花ヶ前盛明『中世越後の歴史』新人物往来社、1986年。ISBN 978-4404013880
- 花ヶ前盛明『上杉謙信大事典 コンパクト版』新人物往来社、2002年。ISBN 978-4404029591
- 花ヶ前盛明『上杉景勝のすべて』新人物往来社、1995年。ISBN 978-4404021809
- 花ヶ前盛明『越後上杉一族』新人物往来社、2005年。
- 八尋舜右『上杉謙信』成美堂出版、1995年。ISBN 978-4415064215
- 新田次郎;安西篤子;半藤一利;花ヶ前盛明 他『上杉謙信』プレジテント社、1990年。
- 工藤章興『川中島合戦:一気読み日本の戦史』学研プラス、2007年。ISBN 978-4054034662
- 木下昌輝;宮本昌孝;沖方丁 他『決戦!川中島』講談社、2018年。ISBN 978-4065122037
- 一ノ瀬義法『激戦川中島』信濃教育会出版部、1969年。
- 田宮友亀雄『米沢藩祖上杉謙信 武田信玄との対決』遠藤書店、1990年。
- 黒川眞道 編集『越後史集 天・地・人』聚海書林、1983年。(原本:國史研究會、1917年)
- 東京大学資料編纂所 編集『大日本古文書 家わけ十二ノ二 上杉家文書之一』財団法人東京大学出版会、1971年。ISBN 978-4130911214
- 東京大学資料編纂所 編集『大日本古文書 家わけ十二ノ二 上杉家文書之二』財団法人東京大学出版会、1971年。ISBN 978-4130911221
- 東京大学資料編纂所 編集『大日本古文書 家わけ十二ノ二 上杉家文書之三』財団法人東京大学出版会、1971年。ISBN 978-4130911238
- 高橋義彦『越佐史料1巻-6巻』高橋義彦、1931年。
- 上越市史編さん委員会『上越市史別編1 上杉氏文書集一』上越市、2003年。
- 上越市史編さん委員会『上越市史別編2 上杉氏文書集二』上越市、2004年。
資料
- 『家督先後録』著者:中条因幡備資、1797年。慶長7年以降の侍組の家督や変遷を記す。(複写:市立米沢図書館蔵)
- 『清和源氏甘粕家系譜』(市立米沢図書館蔵)
- 『源姓天河瀬氏系譜』(上杉博物館蔵)
- 『源姓甘粕近江守家系図』(市立米沢図書館蔵)
- 『米沢藩士 先祖書』『米沢藩士 謹書』先祖書・謹書と合わせて江戸時代の米沢藩士の個々の事績を纏めたもの(複写:市立米沢図書館)
- 『文禄3年定納員数目録』文禄3年の上杉家臣団の知行高が記されている(複写:市立米沢図書館蔵)
- 『越後分限帳』越後時代(時期不明)の上杉家臣団の知行高が記されている(複写:市立米沢図書館蔵)
- 『会津御在城分限帳』慶長3年~6年会津120万石時代の上杉家臣団の知行高が記されている(複写:市立米沢図書館蔵)
外部リンク
関連項目
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