牛の交易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/29 13:11 UTC 版)
テキサス州からテキサスロングホーンを鉄道でカンザス州に運んでくるアイデアは、1850年代の終わりからあったが、南北戦争のために少し中断された。1866年、最初のテキサスの牛がカンザス州南東のバクスタースプリングス (Baxter Springs) にやって来た。しかしテキサスの牛はダニを運んできて、他の品種の牛に脾脱疽を流行させた。これは地元ではテキサス熱 (Texas Fever) と呼ばれ、懸念したカンザス州の農家はカンザス州議会に、州の中央に検疫ラインを作るよう説得した。検疫所は、人が多く住む州東部から、テキサスの牛を遠ざけた。 牛の交易が州西部で進むにつれ、テキサスロングホーンはチザム・トレイル(英語版) (Chisholm Trail) を使って北へ運ばれ始めた。1867年の大きな牛の (Cow Town) は、カンザス州アビリーンであった。利益は高く、他の町もこの牛ブームにすぐに参加した。1871年にはニュートン (Newton) 、1872年にはエルスワース (Ellsworth) とウィチタ (Wichita) の町が名乗りをあげた。しかし1876年、カンザス州議会は、カンザス中部に定住する農民からの圧力に応じ、もう一度さらに西に隔離ラインを変え、結局はアビリーンや他の牧牛の町は、家畜売買から撤退を余儀なくされた。他に牛が行く場所もなかったため、ドッジシティはこの時突然、「牧牛地の女王 (Queen of the Cow Towns) 」と呼ばれるほどになった(国家や地域は英語では全て女性として表現される)。 グレート・ウェスタン・キャトル・トレイル (Great Western Cattle Trail) 、またはウェスタン・トレイルと呼ばれる新しい道は、ドッジシティへ牛を導くためにチザム・トレイルから分岐した。ドッジシティは、家畜収容場を毎年通り抜ける何千もの牛のおかげで、新興都市となった。ドッジシティの家畜売買のピークは1883年から1884年だった。当時の町は恐ろしく成長した。1880年には、境界の町コールドウェル (Caldwell) が、牛の売買の競争相手として頭角を表した。数年間の2つの町の競争は猛烈で、両者とも町が繁栄するのに十分な牛がいた。しかし、どの町もドッジシティほどにオールドウェスト(古き良き西部)を体現する開拓地ではなかったため、この争いはドッジシティが制した。ドッジシティにはまた、一時有名な(そして悪名高い)ガンマンが西部の他のどの町よりも多く働いていて、彼らの多くは1883年のドッジシティ戦争 (w:Dodge City War) に参加した。このカウボーイたちを隔てるため、町にはサロンや賭場、売春宿などができた。1884年には、メキシコの闘牛士が特に選ばれたロングホーンの牛と戦う闘牛場もあった。 より多くの農業の開拓者が西カンザスへ移動するとともに、州議会への圧力は高まった。1885年には、隔離ラインは州全体に拡張され、ウェスタン・ロードは閉鎖された。このため、1886年までには、町のカウボーイ、サロンキーパー、ギャンブラー、売春宿の主人らは、みな西の未経験者用牧場へ移動し、ドッジシティは西部のありふれた他のコミュニティような、活気のない小さな町となった。 「荒野の決闘」「OK牧場の決闘」でのちに知られるようになる、アープ四兄弟の次男ワイアット・アープが保安官を務めた町でもある(ワイアットは一度は辞職するが、カウボーイとなって流れ着いた、現場となったOKコラルがあるアリゾナ州コチセ郡トゥームストーンでも、行きがかり上保安官となる)。
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