熊谷五右衛門(くまやごえもん 1795-1860)
熊谷家は藩政初期ごろ阿武郡から萩城下に移り、問屋、金融 製塩などを業とし、のちに長門萩藩御用達となった豪商である。現在残る明和5年(1763)に新築された屋敷は、主屋のほか離れ座敷、土蔵など10数棟からなる。
4代の熊谷五右衛門は長崎で、あの蘭医シーボルト(1796-1866)から足の病気の治療をうけることになり、同時に彼から西洋事情を吸収した。二人の親交は医師と患者以上のものだったのだろう。シーボルトが、自らの楽しみのために来日時に持参した1819年イギリス製のピアノが、帰国に際して熊谷家に贈られて現在に残された。これは、現存する日本最古のピアノであることから、シーボルトによって日本に持ち込まれた(1823年 文政6年)7月6日は、「ピアノの日」とされている。

熊谷五右衛門
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熊谷 五右衛門(五右衞門、くまがい ごうえもん[1] / ごえもん[2]、1865年7月25日(慶応元年6月3日[3][4])- 1942年(昭和17年)9月1日[2][5])は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員。
経歴
越前国坂井郡熊坂村(福井県坂井郡坪江村[6][7]、金津町熊坂[1]を経て現あわら市熊坂)で、先代・熊谷五右衛門の長男として生まれる[4][8]。農業を営む[2][6][8][9]。1880年(明治13年)7月、家督を相続した[4]。
坪江村会議員、坪江村長、坂井郡会議員、丸岡町長を務めた[1][2][4][6][7][8]。1893年(明治26年)福井県会議員に選出され通算17年在任し、杉田定一系の中心として活動し[9]、参事会員、副議長、議長も務めた[1][4][6][7][8][9]。この間、九頭竜川の改修に尽力した[1]。
1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙で福井県郡部から出馬して当選した[1][2][4]。その後、第13回、第15回、第16回、第18回から第20回総選挙まで当選し、衆議院議員に通算7期在任した[1][2]。この間、北陸本線(現在のハピラインふくい線)の牛ノ谷駅、春江駅の新規設置に尽力し[1]、衆議院全院委員長、立憲民政党相談役などを務めた[1][8]。
その他、福井日報社長、福井地方森林会議員なども務めた[2][7][9]。
親族
脚注
参考文献
- 『内外福井県人士録 第1巻』福井黎明雑誌社、1922年。
- 加藤紫泉『新代議士名鑑』国民教育会、1924年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 昭和3年版』帝国秘密探偵社、1927年。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 『粛正選挙代議士名鑑』選挙粛正中央会編纂部、1936年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『福井県大百科事典』福井新聞社、1991年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
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