無敵艦隊の出撃
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遠征が実行される前に、ローマ教皇シクストゥス5世はフェリペ2世に十字軍税の徴収を許し、彼の兵士たちに贖宥状を与えた。無敵艦隊の旗への祝福は、1571年のレパントの海戦での儀式と同様の方法で執り行われた。 1588年5月9日(旧暦4月29日)、無敵艦隊はリスボン港(ポルトガルはスペインに併合されていた)を出港して英仏海峡へ向かった。艦隊は船130隻、水夫8,000人、兵士1万8,000人からなり、真鍮砲1,500門、鉄製砲(iron guns)1,000門を装備していた。全艦隊が出港するのに2日を要している。艦隊は正規の軍艦を28隻含んでいた(ガレオン船20隻、ガレー船4隻、ナポリ製ガレアス船4隻)。そのほかの大型船のほとんどは武装キャラック船とハルク船で、さらに小型船34隻が随伴していた。スペイン領ネーデルラントでは兵3万が無敵艦隊の到着を待ち、ロンドン近くの地域に兵を上陸させる艀を軍艦が護衛する計画になっていた。この作戦には合計5万5,000人の兵士が動員されており、これは当時においては膨大な規模の軍隊だった。 迎え撃つイングランド艦隊は、王室所属船34隻(1,100トンのトライアンフ号が最大で、19隻が100 - 300トンのガレオン船)と臨時にかき集めた163隻の武装商船(30隻が砲42門の200 - 400トンで、そのうちの12隻がチャールズ・ハワード・エフィンガム卿 (en) 、ジョン・ホーキンス、フランシス・ドレーク所有の私掠船 )で編成されていた。 無敵艦隊が出帆した日、エリザベスの駐ネーデルラント大使バレンタイン・デール (en) がパルマ公の代理人たちと会見して和平交渉を行い、一方でドレークら軍人たちは無敵艦隊に対する先制攻撃を計画し、ビスケー湾まで南下したが、強い南風を受けて引き返している。 7月26日(旧暦7月16日)に交渉は打ち切られ、エリザベスの艦隊はプリマスで迎撃準備に入り(補給は不足していたが)、スペイン軍の動向の知らせを待った。イングランド艦隊は200隻対130隻と数では勝っていたが、スペイン軍はイングランド軍に砲数で勝り、その火力は50パーセント以上高かった。ただ、スペイン艦の火砲の3分の2は人員殺傷用の短射程小型砲で、中型砲以上の火砲数では逆にイングランド側が2倍の優勢だった。 無敵艦隊の航海は悪天候のために遅れ、ガレー船4隻とガレオン船1隻が艦隊から脱落しており、コーンウォールのセント・マイケル山から視認されたのは7月29日(旧暦7月19日)のことだった。この知らせは南部海岸沿いに構築された狼煙連絡網 (en) によってロンドンへ伝えられた。その夕刻、プリマス港のイングランド艦隊は上げ潮に囚われていた。スペイン軍は作戦会議 (en) を開き、防御側の船は錨を降ろして無力化しており、潮に乗じて港を襲撃して、ここからイングランド本土を攻撃することが提案された。しかしメディナ=シドニア公は、そのような攻撃はフェリペ2世から明白に禁止されていると却下し、東方へ進みワイト島へ行くことを選んだ。それからほどなく、チャールズ・ハワード・エフィンガム卿を司令官、ドレークを副司令官 (en) とする55隻のイングランド艦隊が、無敵艦隊と対するべくプリマス港を出港した。ハワードはドレークの戦闘経験を認めて権限の一部を譲っており、ジョン・ホーキンスが後衛司令官 (en) となった。
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