溜池の築造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/08 03:15 UTC 版)
太田村一帯は、元来土地が高くて湿気が少なく、眼前に流れる木曽川の水も利用できなかったため、水利に乏しかった。そのため、わずか数日間の日照りで水田に亀裂が入り、作物は枯死して穀物が実らず、村民は苦しんでいた。 幸周は、朝廷や藩主への年貢が納められないことに憤り、またこの村民の困窮を救済するために用水溜池を築造して永久に干害を防ぐ計画を企てて築造工事に着手した。この築造工事を経て完成した灌漑用溜池は、太郎洞池、加賀池、矢田池、御手洗池の溜池である。これらの面積累計は約67,300坪、使用延人員は32,946人、所要工事費は3,939両であり、この工事費のすべてを幸周が投じた。 中でも太郎洞池は、着手から完成まで約2年(元治元年(1864年)から慶応2年(1866年))の歳月を要し、面積約50,000坪、2,800両の工事費を要し、加えて18人の犠牲者を出した難工事であった。途中、慶応元年(1865年)5月、この地方が数回に亘って豪雨に見舞われ、木曽川が氾濫して太田村のほとんどが大洪水となった。福田家も2尺の床上浸水となったが、幸周は自宅の後片付けを家族に任せ、自らは工事現場に直行してあらゆる手段をとってことなきを得た。こうして完成した池のほとりには、祠が造られ水神を祀って、完成式典が行われた。そのときの奉納札に次の文がある。 表 五穀豊穣 村中安全 慶応二年四月九日 奉鎮守 豊受大明神 美濃国加茂郡太田村長 福田太郎八幸周 裏 当村往々水乏動禾稼 福田七郎右衛門幸知 不登無奈村民焦苦 林 新右衛門由信 村長福田幸周為之焦思 磯谷新左衛門重威 嘗有歳意決意鑿池 福田九一郎□□ 今茲丙寅年功績金 兼松欽次郎守之 成於此無旱潦之患而 磯谷理左衛門重通 村民各安其業久願 神明之応者也 これら溜池の築造によって太田村の水田約150町へ水の供給が可能になり、以降太田村は一変して長く旱魃の惨害から免れて豊作が相次ぎ、鼓腹撃壌の楽土となった。村民一同は、幸周の徳を慕い、その功績に対して深く厚く感謝し、全村民423名が連署して「當村未曾有ノ大功業ヲ戴キ村中一統喜悦ノ至リニ御座候、永ク貴殿ノ誠實ヲ仰ギ後年迠モ旱魃相凌ギ田方ノ相續繁昌可仕ヲ無高小作人ニ至ル迠村中一同難有仕合ニ奉存候」なる文書を幸周に差し出した。 なお、幸周が築造した4つの溜池の概要は以下のとおりである。 太郎洞池 - 面積約50,000坪、工事費2,883両、使用延人員34,000人、犠牲者18人 加賀池 - 面積約10,000坪、工事費576両、使用延人員4,863人 矢田池 - 面積約2,500坪、工事費222両 御手洗池 - 面積約4,500坪、工事費258両
※この「溜池の築造」の解説は、「福田太郎八」の解説の一部です。
「溜池の築造」を含む「福田太郎八」の記事については、「福田太郎八」の概要を参照ください。
- 溜池の築造のページへのリンク