着手から完成まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 16:12 UTC 版)
「ピアノ三重奏曲 (フォーレ)」の記事における「着手から完成まで」の解説
フォーレがようやく新曲のスケッチに取りかかったのは4月にパリに戻って以降で、1922年の5月から6月にかけてと見られる。 1922年7月からほぼ一月の間、生まれ故郷パミエに近いアルジュレスに滞在したものの、気管支肺炎にかかったフォーレはこの地ではほとんど仕事ができなかった。このときフォーレは次男フィリップにパリの家の机の上に忘れてきた原稿を探すように頼んでおり、それがピアノ三重奏曲の第2楽章の中間部のスケッチだった。 8月9日からアヌシー=ル=ヴューに移り、約2ヶ月デュナン館で過ごす。アヌシー=ル=ヴューは1919年以来2度目の滞在だった。8月26日にこの地でフォーレ・フェスティバルが開かれ、翌27日、教会でフォーレの『小ミサ曲』が演奏されるなどの歓迎を受けた。フォーレの創作力はここで回復し、妻マリーに宛てて次のように報告している。 「クラリネット(あるいはヴァイオリン)、チェロ、ピアノのための三重奏曲に取りかかっています。主要な楽章は一月前に書き始め、終了しました。残念ながら、私は連続して長い間仕事をすることができません。私にとってもっともつらいのは、絶え間なく続く疲労感です。」 — 1922年9月26日付、妻マリーに宛てたフォーレの手紙 アヌシー=ル=ヴューで書かれたのは第2楽章と見られる。第1楽章と第3楽章は10月にパリに戻ってからヴィーニュ通り32番地の自宅で書かれ、1923年2月中旬に完成した。この間、1923年1月にフォーレはレジオンドヌール勲章(勲一等)を授与されている。
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