渡辺護を監督に抜擢とは? わかりやすく解説

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渡辺護を監督に抜擢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 14:45 UTC 版)

扇映画プロダクション」の記事における「渡辺護を監督に抜擢」の解説

1965年昭和40年4月斎藤邦唯1929年 - )が代表となり、東京都設立した創業者斎藤邦唯は、もともと文学座出身俳優であり、第二次世界大戦後1954年昭和29年)に製作を再開した日活一時在籍その後草間百合子滝口順平とともに衣笠プロダクション所属していた。1960年昭和35年)に放映されテレビ映画アラーの使者』(監督近藤龍太郎)に「宇野刑事」役で出演した後に製作に転向渡辺護回想によれば1964年昭和39年)には、渡辺助監督務めた悶える女子学生』(監督南部泰三同年11月公開)の製作を務めていたという。斎藤は、同社設立第1作の製作にあたって渡辺成人映画撮れる監督紹介依頼渡辺はかつて師事した西條文喜1921年 - 1988年)を推薦吉田義昭1932年 - 1989年とともに脚本準備するが、脚本完成段階西條降板急遽渡辺監督起用されることになったという。これが渡辺にとっても監督第1作である『あばずれであった同作スタッフ編成協力した関喜誉仁1923年 - 没年不詳)は、竹野治夫、村瀬栄一といったヴェテラン撮影技師照明技師確保同作クォリティ築いた。関は、マキノ正博所長務めていた時代松竹下加茂撮影所から、戦後日活移籍した映画監督であったクレジット上は吉田義昭は「吉田貴彰」、竹野治夫は「生田洋」、村瀬栄一は「村井徹二」といった変名使用し関喜誉仁は「沖弘次」の名で「監修」に名を連ねた同作次には、関喜誉仁が「沖全吉」の名で『嬲る』『妾の子』の2作を監督同社はそれらを製作した同社の製作物は、『あばずれ』『嬲る』を新東宝興業現在の新東宝映画)が、『妾の子』と『情夫と牝』(監督渡辺護)を桑原正衛が同年5月26日設立したムービー配給社(のちの関東ムービー配給社)が配給、『紅壺』(監督渡辺護)を井上猛夫が前年1964年10月1日設立したセンチュリー映画社と、矢島常二(1900年 - 1981年)が1964年4月大阪設立した日本セントラル映画の2社が棲み分け配給した明けて1966年昭和41年1月公開された『浅草踊子 濡れた素肌』(監督渡辺護)、続けて同年2月公開された『女の狂宴』(監督渡辺護)は、センチュリー映画社配給したが、同年上半期センチュリー映画社倒産してしまい、同年3月22日公開された『うまず女』(監督渡辺護以降は、すべて大蔵映画配給することになったしかしながら同年8月23日公開された『女子大生抵抗』(監督渡辺護)を最後に同社製作する作品クレジットを見ることがなくなった事実上活動停止である。斎藤邦唯以降の活動不明であるが、生前渡辺護2013年12月24日死去)は、斎藤とは「まだつきあいあります」と語っていた。

※この「渡辺護を監督に抜擢」の解説は、「扇映画プロダクション」の解説の一部です。
「渡辺護を監督に抜擢」を含む「扇映画プロダクション」の記事については、「扇映画プロダクション」の概要を参照ください。

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