淀川堤の戦いとは? わかりやすく解説

淀川堤の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:12 UTC 版)

石山合戦」の記事における「淀川堤の戦い」の解説

元亀元年1570年9月12日顕如は「信長本願寺破却すると言ってきた」として本願寺門徒飛ばし三好三人衆攻略のために摂津福島に陣を敷いていた織田軍を突如攻撃したそのまま本願寺軍石山出て14日淀川堤で信長軍と直接激突した。この戦い織田優勢のうちに終わり本願寺軍石山戻り籠城構え見せた織田軍は志賀の陣で既に四面楚歌の状態であるため、石山監視のための軍を置くと、朝廷働きかけ本願寺軍矛を収めるよう勅書を出すなど、本願寺との戦闘避けた。そのため、石山本願寺第一次挙兵は、実は1月たたないうちに実質的に終わったのである。 この時の戦いの様子については「野田城・福島城の戦い」を参照 石山挙兵とほぼ同時に長島願証寺一向一揆発生長島一向一揆)し、尾張古木江城落として守っていた信長の弟信興を自害追い込むなど、公然と信長敵対するようになった元亀2年1571年5月信長長島殲滅を図るが失敗し多数の兵を失ったこの年一向一揆対す戦果は、9月一向一揆篭る志村城・金ヶ森城降伏させたに留まるまた、元亀3年1572年)に信長京都自身屋敷建てた際には、3月顕如から万里江山一軸白天目の茶碗贈呈されている。7月には家臣一向宗禁令を出すなど緊迫したが、これは武田信玄仲介という形で和議結んでいる(信玄の妻と顕如の妻は姉妹である)。元亀4年/天正元年1573年)に信長再度長島攻めたがまたも失敗した11月には白天目の茶碗贈られたことに対して謝礼をしている。 但し、兵力出して戦火交えてはいないものの、いわゆる情報戦は非常に盛んであった顕如遅くとも元亀3年末ごろまでには武田信玄毛利輝元などと密かに同盟結んでおり、信長東西から挟撃しようと画策している。足利義昭もこの流れ乗って信玄上洛促すなどしている。当然、信長もそれを牽制するために、朝廷外交上杉謙信への友好工作などを行っている。したがって天正元年末までは、石山本願寺信長互いに牽制しつつも戦火交えない、いわば冷戦よりややまし程度推移していたと思われる

※この「淀川堤の戦い」の解説は、「石山合戦」の解説の一部です。
「淀川堤の戦い」を含む「石山合戦」の記事については、「石山合戦」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「淀川堤の戦い」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「淀川堤の戦い」の関連用語

淀川堤の戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



淀川堤の戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの石山合戦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS